静まりの時
- テーマ:交わり
- 聖書箇所:第一コリント11・17~22
- 日付:2026年07月16日(木)
20 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。
21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
初代教会において、愛餐会と聖餐式はいっしょくたに行われていたようです。食事会の最初に、テーブルマスター的な人が、パンを裂いて食事を始めます。和気あいあいと楽しい食事も終わりになると、乾杯の時があり、ぶどう酒が分かち合われる、という具合です。
しかしコリントの教会において、早くから集まることの出来る自由人たちは先に食事をし、後からしか来れない奴隷の人たちは、やってきたときには食べるものがない、というようなことが起こっていました。
パウロはこのようなことを知らされ、その解決として、聖餐式と愛餐会を分けるようにと提案しました。空腹を満たすためならば、自宅で済ませてきなさい、と言います。そうして、すべての者が一緒に聖餐を祝うことができるようにといいました。
愛餐会はどうしてもなくてはならないものということではなくなりましたが、聖餐式は無くてはならないこととして代々の教会が行ってきました。ペストが蔓延した時も行うことを止めませんでした。それがかえって感染症の流行を助長することになってしまいました。知識がなかったということかもしれませんが、そうまでして守り通したということかもしれません。
聖餐式の大切な意味の一つは「交わり」です。そのことが明確に書かれている個所がこの第一コリント11章17節以降だと思います。
我先にと自分の食事をする。そうであっては、主の晩餐、すなわち聖餐をいただくことにならない、と言いました。皆で一緒にいただく。そうしてはじめて聖餐式がなりたつ、というのです。
聖餐のテーブルを、聖餐卓、といいますが、英語では、”communion table”、というそうです。”communion”、すなわち、交わり、です。
教会の交わり、といった場合、この聖餐式での交わりのことをいいます。あるいは、この聖餐式を中心として生まれる交わりのことをいいます。聖餐は主との交わりであるとともに、兄弟姉妹との交わりでもあるのです。たとえ会衆が一人しかいなくて、牧師と二人だけの聖餐式であったとしても、教会につながる兄弟姉妹との交わりがそこに生まれているのです。あるいは先に天に帰られた兄弟姉妹とのとの交わりが実現しているのです。
主との交わりと兄弟姉妹の交わりは切っても切れない関係にあります。これを切り離して、別々に考え始めると、教会の交わりが世俗的なものになり果ててしまいます。そうなると、世俗的な考え方が中心となって、便宜的な手法での交わりが行われることになり、教会は教会でなくなってしまいます。そうして主との交わりが、主との交わりでなくなってしまうのです。
主との交わりは良いけれども、兄弟姉妹との交わりは苦手、というかたもおられるかもしれません。しかしキリスト教会において主と交わるということは、もれなく兄弟姉妹との交わりの中に生きることです。もちろん、我先に自分の食事をする、などといった信仰生活を送る兄弟姉妹のなかに生きなければならないとなると、尻込みします。だからこそ、交わりが主との交わりの中に兄弟姉妹の交わりがあるということを明確にしていなければならないのです。聖い交わりをつねに実現する努力を惜しんではならないのです。