カテゴリー: 静まり~聖書の言葉から

聖書の言葉から

  • 彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった

    静まりの時

    • テーマ:回心
    • 聖書箇所:ルカ15・11~32
    • 日付:2026年08月06日(木)

    17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
    18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
    19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
    20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。

    「我に返って」。我に返る、と訳されていることばは、文字通り自分自身のところにやって来る、ということばです。この放蕩息子は、それまで、自分自身のところにいなかったのです。自分自身を生きていなかったのです。そのことに気づきました。そうして自分自身のところに帰ってきたとき、父のところに帰ることを決意しました。

    自分自身のところにいない。あるいは本来の自分自身に生きていない。それが罪びとのありさまです。しかしそのことに気づく時がやって来ました。人生の行き詰まり、困窮、問題、生きていけなくなってしまったこと、が、本来の自分に戻るきっかけを生んだのです。少し強いことばを使うとすれば、自分自身に絶望したとき、自分自身に帰る、ということが起こったのです。神さま抜きで自分に期待している時、あるいは自分が何者かになったかのように思うとき、自分自身から遠く離れています。

    放蕩息子にとって自分自身のところに帰る、ということは、父のところに帰る、ということに導かれることでした。自分に帰る、本来の自分に生きる、ということは、父なる神さまのもとに帰る、ということ。あるいは父なる神さまのもとに帰る、ということこそ、自分自身に帰るということ。

    自らの創造者であり今も支えていてくださる全能者、十字架と復活の愛をもって日々守っていてくださるお方のもとに帰る。それが本来の自分に生きること、自分らしく自由に安心して生きることを私たちに得させます。

    放蕩息子は、父にあわせる顔が自分にはないことを痛感しています。しかし父のもとに帰ることを決意しています。自分の義に頼っていたならばできないことです。自分の義もプライドもすべて捨てることを決意しています。もう、息子と呼ばれる資格はない、雇人の一人にしてほしい、と。そうして彼は「立ち上がって、自分の父のもとへ」向かいました。

    立ち上がること、父なる神さまのもとへ向かうこと。それは、自分の義、を捨てることによって生まれます。自分の義にしがみついているうちは、立ち上がれません。父のもとに帰れない。たとえ帰ったとしても、本当に帰ったとは言えない。よって、いまだ立ち上がれない。

    放蕩息子の回心は、我に返ること、そうして父のもとに帰ること。父のもとに帰るとは、自分の義を捨てること。そうして立ち上がること。

    「自分の父のもとへ」。単に父と言われるのではなく「自分の父」なのです。すべてのひとが帰るところです。