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聖書の言葉から

  • 神をあえぎ求めて

    神をあえぎ求めて
    2017年12月10日(日)

    六十年間というもの、ドストエフスキーは神にいたるための苦闘をつづけ、「乾ける草のごとく」信仰を渇望しつづける。
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    そういうわけでドストエフスキーは心をやすめてくれる存在としての神を夢みていたのであるが、彼が見出した神は炎だったのである。
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    脳髄を感情のなかで燃やしつくし、けもののように愚鈍となって、神のやすらぎのなかへ流れこむということ、これが彼の夢である。
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    まことに彼の愛は神をもとめるあえぎであり、「ほとんど不作法なほどの情熱」であり、発作的痙攣であり、充溢である。しかしこのように狂信的に神を信じたいと思っているからといって、それだけでドストエフスキーが信心ぶかいといえるであろうか。・・・ドストエフスキーはだれにもまして信心ぶかく、同時にだれよりも極端な無神論者である。・・・ほんとうの彼はいつも信仰告白者や異端者とともにいる。彼の信仰心は肯定と否定という世界の二つの極のあいだをゆききする炎の流れである。

    〔シュテファン・ツヴァイク〕

    『愛と自由のことば』
    大塚野百合、加藤常昭編
    日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
    2011年6月20日第14版発行
    376頁

    「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」(マタイ21・12~14)

    神さまは私たち人間を激しく愛していてくださるお方です。その情熱は炎となって私たち人間の罪を焼きつくさずにはおれません。その情熱は十字架の上でいのちを捨てるほどのものです。その情熱は復活して世の終わりまでともにいるという約束の中に燃え続けています。その情熱は聖霊なるお方の導きの中に日々注がれています。