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聖書の言葉から

  • ヨブの自由

    ヨブの自由
    2017年12月12日(火)

    ヨブよ、それらの動物の一つ一つがなぜ存在しなければならないのか、なぜあんな姿をしているのか、その意味を人間が与えることができるであろうか。・・・そのすべてのものを人間は自分のものとして利用し意味づけようとする。一切の物を自分のものとし、主人になろうとする現代人の傲慢を知れ。それが不可能であるからといって絶望する人間のわがままを知れ。自然はみな節度を守って神の被造物として生きているのではないか。それぞれが、そのありのままの姿で神の被造物として厳然としてあるのではないか。荘厳で真剣なのではないか。そしてその自然さえ勝手にはできず、してもならぬ人間が、どうして神の自由と支配の前にたかぶることができよう。人間には分からないことでも、かみにとっては深い意味と層があるのだ。
    ・・・
    たとえヨブには分からないにしても、ヨブの存在も、ヨブに与えられた無理由と見える苦しみも、深い意味をになっている。神の御心のなかには、はかりがたい広さとゆとりと自由とがあって、この父としての自由な御手が自然と歴史との上に置かれているのである。・・・嵐さえ、この神の自由に従っているのではないか。この信頼と服従とから、はじめて節度ある真の人間的自由が生まれるであろう。

    〔福田正俊〕

    『愛と自由のことば』
    大塚野百合、加藤常昭編
    日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
    2011年6月20日第14版発行
    378頁

    「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ38・1)

    ヨブ記が私たちに語ろうとしていることは、この世界に起こる出来事にはすべて神さまがその御心の理由を持っておられるということ、しかし、その理由を人間は完全には知ることはできないということ、その人間としての分をわきまえて生きなさい、ということ、そのような分をわきまえた生き方の中にこそ人間としての健やかさと真の自由があるということ、です。

    私が理解できないからといって絶望することは人間のわがままであると福田先生は語られます。自然と共にひとりの被造物として生きる謙虚さをいただかなければなりません。