「其れ信者は主に従ふ者なり。若し主に従はずして徒に其名を呼ぶ者の如き、焉んぞ信者といふべけんや。信者は各々其程度に従って十字架を其心と身とに負ふ。故に今より以後復活に至るまで、吾人の前途苦戦苦闘逃るべからざるもの有り。」
新井奥邃、『聖言』、134
「主を信じる者は主に従う者である。もし主に従うことをしないで、いたずらに主の名を呼ぶ者であるならば、どうして信者ということができるだろうか。信者はおのおのその状態におうじて十字架を、その心をからだに負う者である。ゆえに今より以後、復活の時に至るまで、われわれの前には、苦戦苦闘から逃れることはできないのだ。」
信仰に生きるというこにおいても人間は自己中心になることができます。自分にとって得であるから信仰をする、得でないようなことであれば信仰をしない、といった具合です。聖書にかかれていることは素晴らしいことですが、実際にそのように生きることは自分の人生にとって損をすることになりかねないので、やめておこう、など。
しかし信仰に生きるということは、キリストを主としてキリストに従うということなくていありえないのです。それは十字架を日々背負って生きるということです。十字架を負うことは戦いです。苦しい戦いです。しかし信仰に生きるということは、そういう戦いに生きるということです。
謙遜を求め、欲望を捨て去ること。隣人への愛に生きること。みな戦いです。自分を捨て、自分を殺さなければできません。信仰に生きるということは、そういう戦いを戦うことです。
大変そうですが、この戦いに生きる時、戦ったものでしか味わい知ることのできない平安や幸福、人生の充実をいただくことができます。
〔聖書の個所〕
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
(マタイ10章238~39節)
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
(へブル12章11~12節)