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  • 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。 ルカによる福音書14章26節

    〔世に抗して〕
    2015年2月8日(日)

    新しい被造物の生命はさて、古い被造物が持つ生命の健康で威厳ある継続とはやはり別なものです。それを見えるようにせよと命令を受けた者は、言われるとおり具体的に命令に従うことを拒んではならないでしょう。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、94f。

    家族は大切なものです。キリスト教信仰に生きるということは、家族を大切にするということです。たとえ誰をも愛することができなかったとしても家族だけは愛する者でありたいと思います。たとえ誰ひとりキリストのもとに導くことができなかったとしても家族だけは導きたいと思います。たとえ偉大なことは何ひとつできなかったとしても家族だけは大切にしたいと思います。
    その家族。その家族を憎めとイエスさまは言われます。これはいったいどういうことでしょう。

    この世を見ると、いくつもの殺人や不幸な出来事が家族の中で起こっています。彼らは家族を愛していなかったのでしょうか。家族を憎んでいたのでしょうか。
    私はそうは思いません。彼らは彼らなりに愛していたのだと思います。しかし結果として愛していることにならなかったのだと思います。彼らに欠けていたことは、この「憎む」ということだったのではないかと思います。

    別の言葉で言えば、それは自分自身の手の中に置いていた家族を、イエスさまのみ手の中にゆだねるということではないかと思います。自分が神さまのようになって、家族を愛そうとしてしまったことが、結果的に殺すことになったのではないかと思うのです。

    新しく神さまに造っていただいた私たちは、悪い関係はもちろんのことですが、一見良いと思われる関係においても神さまの御手の中からあらためていただき直さなければならないのです。そのためには、憎むほどにいったん神さまのみ手の中にゆだねなければならないのです。

    (祈り)
    神さま、愛する家族をまことに愛することができるように、あなたの御手にゆだねます。