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  • 全ての「引き渡し」のご本人としての神

    〔ユダ〕
    2015年3月28日(土)

    ユダが自分の良心で受けとめたのはこのことです。すなわち、神以外に誰も助けることができない状況にイエスを連れて行くこと、イエスに及ぼす力を人間たちの手に入るよう仕組むことです。
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    他ならぬイエスの「引き渡し」はむろん、イエスとユダの死の後に明らかになるであろう教会の「使徒職の前提」となります!
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    ユダによる罪深い、それ自身何物によっても正当化されえないイエスの「引き渡し」は、人びとの手へのイエスの別な引き渡しの中にその客観的な相関関係を持ち、それが使徒職の意味内容を形成し、それにより教会が地上に創設され維持されます。この引き渡しにおいて、ユダの引き渡しにおいてなされた悪が、善に変えられます。
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    神ご自身がユダの行動の中で行動されたのです。
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    神の怒りがユダヤ人と異邦人を引き渡し、見捨て、自らを引き渡す「前に」、神はご自身の子を容赦せず、私たち全てのために御子を「引き渡された」のです。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、176ff。

    神の子イエスさまが、私たちの罪のために「引き渡され」十字架につき死なれました。それによって罪の奴隷であった私たちはあがなわれました。ユダによる「引き渡し」によって私たちは救われたのです。ユダによってなされた悪は、人びとを救う善に変えられています。人間のなした悪は、神さまの御手の中で、善につくりかえられるということが起こるのです。

    決して悪を行ってもよいということではありません。わざわざ悪を行わなくとも私たちはそもそも悪なのです。しかし神さまの圧倒的な愛は、私たちの悪をもその御手の中で造りかえることができるのです。

    (祈り)

    神さま、引き渡されてくださった神さまの愛を感謝します。