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  • 神の賜物

    〔復活祭〕
    2015年4月9日(木)

    永遠の命は神の賜物です。従ってそれは決して報酬、賃金、謝礼、死が罪の報酬であるような俸給ではありません。永遠の命は、神が私たちに与えて当然なものではなく、―私たちが受けて当然のものではなく―良き奉仕に対する支払でもありません。
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    神は罪のような、決算書を手に持つ大いなる会計係や雇用者や出納係のような方では決してありません。

    神は決算の計算をなさらない。全くおおらかで気高いご主人であり、事態を保留されて、御心に適う者に恵みを贈り、施すことだけを喜ばれる、その喜びを大事にされます。
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    あの方において私たちが―むろん実に私たち一人残らず―永遠の命の賜物に与かるように、あの方に命をお着せになったのです。
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    それは大いなる「しかし」と前進! でした。
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    主は復活された、本当に復活された、しかも主において主と共に本当に私たちも復活しました。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、207f。

    同じように手にしたものでも報酬であるのか賜物であるのかの違いは大きいでしょう。死は罪の報酬であるが、永遠の命は賜物である。神さまが私たちに一方的な恵みによって与えてくださったものであるのです。

    もし永遠の命が報酬であるとするならば、私たちの信仰生活は、その報酬をいただくための労働であるということになります。自分が報酬をいただくために労しているのが人生だとすれば、どこに喜びがあるのでしょうか。それは結局は自己中心の枠から一歩も出ていないことなのではないでしょうか。

    永遠の命は賜物なのです。ですから喜びがあります。感謝があります。人をさばくことから自由になります。謙遜と柔和の道があります。

    (祈り)

    神さま、あなたの一方的な恵みによって永遠の命を与えていただき感謝します。