〔私といっしょにひと時も目を覚ましていられないのか〕
2014年4月3日(水)
僕は、この刑務所で、二度目の受難週を迎えようとしている。
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僕が、君やあるいは現代の普通一般の人々よりももっと「苦しんでいる」かどうか、僕には全く疑わしい。もちろん、ここには恐ろしいことはたくさんある。しかし、恐ろしいことのない所など、どこにあるのであろうか。
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かつて僕は、<どうしてカトリック教徒は、このような場合に、自分にふりかかる苦しみを無視して、黙って通り過ぎて行くことができるのか>と不思議に思ったものだ。しかしそうすることによって、彼らはしばしばもっと大きな力を得ているのではないだろうか。おそらく彼らは、その歴史から、苦難や殉教というものが実際何であるかについて、僕たちよりもよく知っているに違いない。そして、些細な重荷や障害に対しては全く沈黙するのである。
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実際、正直なところ、僕はしばしば<われわれは、何と頻繁に、自分自身の苦難についてばかり語ってきたことか>と恥じる。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、167頁f。
苦しみをいたずらに大きなものととらえることによって、苦しみを正しく捕えることができなくなり、結果苦しみに押しつぶされてしまいます。
無視するほどに、また通り過ぎて行くほどに、そのままに捕えることができれば、苦しみを正しく捕えることができ、結果、私たちは平安の中に生きることができるのでしょう。
苦しみの中にある時、その自分自身の苦しみばかりに心をとめるのではなく、隣人の、また世界の苦しみに目を向けることは良いことかもしれません。
(祈り)
神さま、自分の苦しみにばかり目をとめるのではなく、隣人の苦しみに心を開くことができるように助けてください。