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  • 神の苦難にあずかる

    〔私といっしょにひと時も目を覚ましていられないのか〕

    2014年4月4日(金)

    人間は、この神を失った世界に対する「神の苦しみ」に共にあずかるように、呼び出されているのである。
    ・・・
    キリスト者であるということは、人間であるということなのだ。
    ・・・
    そして僕たちは、宗教的行為によってキリスト者となるのではなく、この世の苦しみの中で神の苦しみにあずかることによって、キリスト者となるのである。

    ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
    村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、167頁ff。

    人間は、平安を求めてこの世の苦しみからしばし離れるために、宗教を求めることがあります。きっかけはどのようなことであっても神さまは招いていてくださいますので、そうしてキリスト教を求めることも悪いわけではありません。しかし、そういう願いをもってキリスト教を求め、教会の門をくぐるだけならば、途端につまずくことでしょう。

    キリスト教信仰に生きるということの中には、神さまの苦難にあずかる、というところがあります。そうしてまことの人間になっていくのです。

    苦難をあらためて求めていく必要はありません。神さまはすでに私たちそれぞれに苦難を与えていてくださいます。神さまを信じるということは、そのような苦難を神さまからものとして改めて受け止めていくということです。そうして私たちは真の人間となっていくのです。あるいは自分自身の人生を築いていくのです。

    この苦難があるから、自分は自分の人生が歩めない、と嘆くことがあるかもしれません。しかしその苦難を神さまからのものとして受け止めていくとき、そこの自分の真の人生が築かれていくのです。

    (祈り)
    神さま、今ある苦難をあなたからのものとして受け止めることができるように、助けてください。