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  • われわれのうちに住む神とキリスト

    〔われわれはその人といっしょに住むであろう〕

    2014年5月27日(火)

    われわれのうちに住むことになるのは、われわれの心を捕えて離さない愛する人の「イメージ」のようなものではなく、またわれわれのうちに満ちる新しい「力」のようなものでもない。われわれのうちに住むことになるのは、人格的な神であり、キリスト自身である。
    ・・・
    みずからの完全な救いをキリストのうちに求め、われわれのうちには求めなくなるその度合いに応じて、すなわちわれわれがキリストを自分の上に立つ主とする度合いに応じて、キリストはわれわれのうちにいまし、ついには完全にわれわれを占有するようになるであろう。

    ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
    村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、261頁ff。

    ヨハネ14章23~24節。
    聖書の神は人格的な神である、とボンヘッファーは語ります。人格的な神であるということは、イメージや力といったものではないということです。イメージや力というのはそれ自体私たちにかかわり私たちに語り私たちを導くということではないからです。ましてや私たちの主人になるなどということはありません。

    人格的な神さまを信じるということは、その神さまの語られる言葉に聞き従って行くという生き方を私たちにもたらすはずです。そうでないならば人格的な神さまを信じているのではなく、単なるイメージや力を信じているだけであって、そのイメージや力を主人となって左右しているのは相変わらず自分自身ですから、自分という偶像礼拝をしているだけです。聖書の神を信じているといいながら、その信仰が偶像礼拝であるならば、人生が祝福されるわけがありません。

    みずからの完全な救いをキリストのうちに求め、私のうちには求めなくなるその度合いに応じて、キリストの愛が私を支配するようになるのです。イエスさまが私の主人であるという信仰生活の深まりが、神さまの愛に満たされる道です。

    (祈り)
    神さま、あなたを主として今日も歩みます。