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  • 「さてイエスは聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた」。ルカによる福音書4章1,2節

    〔イエスの誘惑〕

    2015年1月17日(土)

    イエスを荒れ野に引き入れ、駆りたてた(マルコ1章2節)のは―洗礼者ヨハネがヨルダン河畔でイエスの上に降りるのを見たのと同じ、あの霊です。
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    イエスはまさに人間であり、誘惑をお受けになることがおできになり、しかもまた誘惑と対決する意思もあります。
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    誘惑を防御してではなく、攻撃して耐えなければなりません。何が問題なのでしょう。
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    イエスが、贖罪をする一人の偉大な罪人の、ヨルダン川のほとりで踏み入った道に忠実に踏み留まらず、そこから、行く先に彼の十字架が立つ必要のない、一つの方向へ進んでもらいたいという、すすめと無理な要求が問題です。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、51f。

    イエスさまは聖霊に導かれて荒れ野へ行かれ、悪魔からの誘惑を受けられました。
    悪魔からの受けられた誘惑は、いずれもイエスさまが「十字架への道」に進まれることと反対の道に行くようにとさせるものでした。

    誘惑といいますと、さまざまな罪への誘惑ということを思いますが、イエスさまが受けられた誘惑は、いずれも神のようになるという誘惑でした。空腹時には石をパンに変えること。神殿の頂から飛び降りても死なないこと。この世の国々とその栄華のすべてを手に入れるということ。

    多くの宗教はこのような力を手に入れる道を人間に語ります。このような力を手に入れることこそ人生の祝福であると語ります。キリスト教会と標榜する群れの中にもこのような力を手に入れる道に祝福があるなどと語るところがあるようです。
    しかし聖書の宗教は、このような道が最初の人アダムの受けた誘惑であり、また犯した罪であると語ります。このような道こそ「神のようになろうとする道」であり、滅びの道であると語ります。

    イエスさまは、神であるにもかかわらずまことの人間として、この誘惑を受けてくださいました。そして誘惑に打ち勝ち「神のようになろうとする道」を退けられたのです。そうして定められていた十字架への道をあらためて選び取ってくださったのです。

    このイエスさまによって私たち人間、すべての人間の救いの道、すなわち贖罪の道が前進しました。

    (祈り)
    神さま、神になろうとする誘惑に打ち勝たせてください。そうしてまことの人間としての健やかさに生かせてください。