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  • 「この石に、パンになるよう命じたらどうだ」。 ルカによる福音書4章3節

    〔イエスの誘惑〕

    2015年1月18日(日)

    「この」誘惑は、前にも後にもかつて人間の上に襲いかかったことのなかった誘惑であり、その誘惑からイエスだけが攻撃されえたのです。
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    サタンはイエスに呼びかける、荒野のこれらの石を彼が神の子である力で、言葉によってパンに変えよ、と。―イエスがこの最初の誘惑に屈してしまっていたとしたら、それはどんな意味があったでしょうか。
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    そうなっていたとしたらイエスは、疑いもなく自らに帰属する神の力を、自分が自由に使える技術的手段のように、自らの命を救い、守るために利用したことになったでしょう。そうしたならば、イエスはヨハネの洗礼において加わった罪人たちの列から、彼らのために断食する者、悔い改める者の立場から、わがままにも再び歩み出してしまったことになるでしょう。
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    イエスはこの誘惑に抵抗しました。
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    この民の頭(かしら)、王である神のほかには何の希望も持たない罪人たちの一人として生きることを望まれた。
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    まさにそれは、イエスが人びとの立場でなさった正義でした。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、52ff。

    キリスト教会が宣べ伝える福音は、荒野の石を神さまの力によってパンに変えること、ではありません。神さまの力を、自分たちが自由に使える技術的手段のように利用することを教えること、ではありません。

    これが誘惑であるのは、そうすることができるからです。そうすることができてしまうからです。

    私たちは神ではありませんので、このような神の力を発揮することはできませんが、私たちが信じているイエスさまはまことの神さまですから、このような力を発揮することができ、だからこそこれが誘惑だったのです。
    大切なことは、この誘惑に勝たれたということ。すなわち、神さまの力を自分を守るために利用することをされなかったということ。そして私たちと同じ罪人の列にとどまり続けてくださったということです。

    この誘惑に勝ってくださったということは、罪人である私と、世の終りまで共にいます、というお言葉通りに生きてくださったということです。

    ですから私たちも、このイエスさまを宣べ伝えます。このイエスさまを宣べ伝えなければキリスト教ではありません。聖書の信仰ではありません。
    石をパンに変えることのできるお方であるイエスさまが、石をパンに変えられないで私たちと共にいてくださる道を選び取ってくださった、ということを宣べ伝えなければなりません。

    神さまは、石をパンに変えることができず、依然苦しみの中にある私たちと共にいてくださるお方です。
    その真理の中にこそ、隣人への愛に生きる道が開かれるのです。

    (祈り)
    神さま、罪人である私と共にいてくださるあなたのご愛に感謝します。どうかそのような愛に生きる者にしてください。