投稿者: 塩辛と お茶漬け

  • 神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました

    静まりの時 第一コリント15・50~58〔栄光の望み〕
    日付:2024年06月27日(木)

    「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
     ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
    (56~58)

     死のとげは罪である。死にはとげがあって、死に触れようとすると、そのとげによって、私たちは少なからず痛みを覚えることになる。よって不用意に触れることがむずかしい。どのように触れていけばいいかわらかない。かといって死を遠くに追いやり、まるで存在しないかのようにして、それで済むのか。死はだれにでも平等にやってきます。いつか必ずやって来る死。それを解決せずに、人生を本当に生きたことになるのか。
     死のとげとはいったいなんであるのか。聖書はそれは「罪」である、といいます。罪があるので、不用意に触れることができない死。死を解決するためには、この罪が解決されなければならない。
     罪というと、何か悪いことをした、とか犯罪を犯したと考えますので、この文章が分からなくなります。罪とは、まとはずれ、という意味で、神さまに背を向けている、ということそのものです。罪とは、私たちは犯した行為、というよりも、私たちの存在、あり方そのもののことです。
     罪が私たちにとってとげである。死が私たちを傷つけるのは、それは私たちが罪びとだからである。罪が解決されない限り、死は滅びでしかない。私たちはただ死ぬのではない。私たちは罪びとの死を死ななければならない。罪が解決されない限り、死は、私たちを滅ぼしてしまうとげであり、それは、死に向かう今の私たちに大きな影を落としている。罪が解決されない限り、いつも滅びでしかない死に向かっている恐怖に縛られている。

     罪は、神さまに背を向けていることである。そのことを決定的に私たちに知らしめるのは、律法です。律法は、本来私たちが、神さまを愛し、隣人を愛するために、どのようにすればよいかを語っている言葉でした。
     きゅうりやなすびを育てるとき、私たちは「て」をこしらえます。もし「て」がなければ、きゅうりやなすびは好き勝手に伸びて実を結んでしまいます。それではちゃんとした実が結ばれず、きゅうりやなすびの木自体も健康に生きることができません。律法は、この「手」みたいなものです。ちょっと窮屈に思うかもしれませんが、それによって、しっかりと自分自身に生きることができるのです。
     しかし罪びとである私たちは、それを、神さまからの愛の言葉として受け取らず、互いを批判し、自分自身をさいなむ道具にしてしまいました。そうして自分たちは、神さまに背いている存在であることを証明する道具にしてしまったのです。
     罪の力。すなわち神さまに背いてしまっている状態のもたらす力は、この律法によって具体的な影響を私たちに及ぼすのです。本来私たちを生かすために与えられた律法でしたが、神さまに背いたままの状態では、律法は私たちに滅びでかない死を決定的なものとしてしまい、その人生をも暗く破壊的なものとしてしまいます。

     しかしイエスさまは、私たちに勝利を与えて下さいました。十字架と復活によって、勝利をもたらしてくださったのです。
     父なる神さまに死にまで従う従順を示されたイエスさま。死をもって死を打ち破られました。そのイエスさまを神さまは復活させ、十字架のわざがまさに神さまの御業であったことを明らかにしてくださいました。復活したイエスさまは、世の終わりまで私たちとともにいるとお約束くださり、そうして真実の愛を私たちに向け続けていてくださることを証明してくださったのです。
     神さまの愛に生きる私たちにとっては、死は罪びとの死ではなく、罪赦された者の死となりました。私たちは死んでも生きるのです。それは神さまご自身が永遠なるお方であり、その神さまの愛に守られ、神さまのいのちに結びつけられているので、私たちも永遠なる者としていただいたのです。
     永遠なる者としていただいた。すなわち尽きることのないいのちを私たちにもたらしてくださいました。これは死んだ後のことだけではなく、今を生きる私たちのこのいのちをも、すでに永遠なるいのちとしてくださったということです。私たちは、きょうもこの永遠のいのち、尽きることのないいのちに生かされているのです。
     使命という言葉があります。命を使う、と書きます。誰かのために愛に生きようとする。命を使います。滅びに向かう命は、限りある命でしたから、使えば減少しやがてなくなります。しかし尽きることのないいのちに生きる私たちのいのちは、減少することがありません。むしろ五千人の給食において明らかにされたように、主が与えて下さったいのちのパンは、分ければ分けるほどに増えるのです。

    ですから私たちは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励み」ましょう。私たちは「自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている」のですから。だれにも評価されない小さなことも、永遠のいのちに生きる私たちの為したことであるならば、それは決して無駄なことではない。空っぽのことではない。消えてなくなることではないのです。

    1,ちいさなかごに 花をいれ、さびしい人にあげたなら、
      へやにかおり満ちあふれ、くらい胸もはれるでしょう。
      あいのわざはちいさくても、かみの御手がはたらいて
      なやみのおおい世のひとを あかるくきよくするでしょう。
    2,「おはよう」とのあいさつも、こころをこめて交わすなら、
      その一日おたがいに、よろこばしく過ごすでしょう。
      あいのわざはちいさくても、かみの御手がはたらいて
      なやみのおおい世のひとを あかるくきよくするでしょう。

    (讃美歌 第二編 26 「ちいさなかごに」)

    第一コリント15・50~58
    50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
    51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
    52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
    53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
    “54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。
      「死は勝利に呑み込まれた。」
    55  「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
      死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
    56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
    57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
    58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。