それが「来る方」の信仰共同体でない場合には―それが自分自身の蓄えと安全装置によって生き始める場合には、やがていつの日にか、そのような安全装置は、焼け切れてしまうだろう。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、221ページ
ヨハネ14章18節
2012年06月30日(土)
主イエスさまは「来る方」であると語られました。来る方というのは、私たちを一人ぼっちにしないお方であるということです。このお方を土台として歩みたいと思います。
安全装置とは、いつも守っているものということでしょう。万が一の時もそれによって助けられるものということでしょう。それは神さま以外にはありえませんが、私たち罪びとは、如何に神さま以外にその安全装置を求めてしまう者でしょうか。
神さまのみを土台として人生を歩むこと。そのチャレンジがいつもあります。