投稿者: 塩辛と お茶漬け

  • いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません

    静まりの時

    • テーマ:神の家
    • 聖書箇所:使徒7・44~50
    • 日付:2026年06月18日(木)

    46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。
    47 そして、ソロモンが神のために家を建てました。
    48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。

    大祭司の問いに答える形で話し始めたステパノ。それは旧約聖書の講解説教のような内容でした。ステパノが旧約聖書を引用して語ろうとしたことは、51節以降に記されています。

    51 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
    52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
    53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」

    イスラエルの民は、律法を受けていながらそれを守らなかった、いつも聖霊に逆らっている、そうして神さまが送ってくださったイエス・キリストを殺してしまったのだ、イスラエルの民は、神を殺す者になってしまっている。そう語ったのです。これによってステパノは殉教することになります。

    「神のために家を建てる」。しかし「いと高き方は、手で造った家にはお住みにならない」。

    さまざまな宗教がその神殿を建てる場合、そこに神が住まう、ということが期待されているはずですが、ユダヤが教えられたことは、神のために建てたものに神は住まない、ということでした。神が住まないのだから建てる必要はないのか、というとそうでもない。神さまのために建てるのです。しかしそれには神は住まない、ということが前提とされているということは、神のために建てる、ということには、神が住むということの他に意味があることを想像させます。

    神さまが住むということがないのに、神さまのために建てる、というのは、いったいどういうことなのだろうか。

    一つは、建てるということにおいて私たちの中に生まれる、あるいは育まれる何かがあるということ、が想像されます。神さまへの献身や愛がそこで育まれるとすれば、それは大きな意味だと思います。

    あるいは、神殿を建てるということによって、そこに神さまは住まない、ということが明確になる、ということもあるかもしれない。神殿がなければいつまでたっても神さまの住まわれる家が必要だという思いに捕らわれることですが、実際に神殿が建てられると、その目の前にそびえたつ建物には神さまは住まわれないのだ、ということが明らかになる。あるいは明らかにする必要が出てくる。そんなことも思いめぐらせます。

    しかしわざわざ誘惑となるようなものを建てるということには納得しずらいところもあります。建てた神殿に神が住まないということなのだから、いっそのこと建てなければいいのではないか、建てないほうが私たちの信仰が純粋なものとなるのではないか、とも思えてきます。

    神さまは神殿には住まない、神さまはもっと大きなお方である、ということを見失うことなく、建てられた神殿が祈りの家であることが明確にされる、そんな信仰姿勢が育まれることが大切なことかもしれません。