投稿者: 塩辛と お茶漬け

  • われわれを見捨てる神

    〔私といっしょにひと時も目を覚ましていられないのか〕

    2014年4月5日(土)

    この点が、あらゆる宗教との決定的な相違点である。人間がもつ宗教は、人間が困窮に陥ったときに、この世において神の力を示す。ところがその場合の神とは、人間の陥っている境遇に、無理やり引き寄せられた「神」にほかならない。しかし聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。そしてこの苦しむ神こそが、人間に助けを与えることのできる神なのである。その限りにおいて、<この世が成人となる>ということは、<誤った神概念が一掃される>ということであり、<僕たちの目が解放され、その結果、この世の中で「無力さ」によって「力」と「場所」とを獲得する聖書の神を見るようになる>ということなのである。

    ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
    村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、170頁f。

    イエスさまは、「その全能によってではなく、自分の弱さと自分の苦難によって」私たちを助けて下さるとボンヘッファーは語ります。こうして誤った神概念が一掃され、聖書の神さまを見るようになるといいます。
    問題は神さまを知らないことではなく、誤った神概念です。人間中心で、人間の側に引き寄せてしまった神はまことの神ではありません。私たちは「成人」になって、弱さによって私たちを助けて下さるまことの神にお出会いしなければなりません。
    そうでないとまことの平安に生きることができないのです。

    (祈り)
    神さま、まことの神であるあなたにお出会いさせてください。