投稿者: 塩辛と お茶漬け

  • あなたが労したのではない地

    静まりの時

    • テーマ:地上の旅人
    • 聖書箇所:ヨシュア24・1~13
    • 日付:2025年10月07日(火)

    13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』

    「あなたが労したのではない地」、「あなたがたが建てたのではない町々」を、神さまが与えてくださいました。それは誰かが労し、誰かが建てた町々である、ということですが、それを神さまが与えられた、と語ります。
    その結果、「そこに住み」、その土地に生え、育つ「自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている」という状況が生まれました。

    「住む」とか「食べる」ということは、自分一人ではなく、他者の存在があって生まれるものである。そしてその他者の背後に神さまのご存在がある。そういうことを語ろうとしているかもしれません。

    自分で獲得したもの、あるいはそう錯覚しているものによって人生が築かれると考えると、私たちは貪欲になります。過度の欲望を生み出します。獲得して傲慢になり、失って失望します。
    しかし、すべては与えられたものである、神さまに与えられたものである、そして多くの人びとの犠牲と祈りの中に与えられたものである、ということが了解されることによって、独り占めする生き方ではなく、分かち合う生き方へと招こうと神さまはなさったのではないだろうか。

    聖書に記されているヨシュアによるイスラエルのカナン入植はどう見ても侵略であり、お世辞にも称賛されることではありません。ましてや現代の複雑な世界情勢の中で、具体的背策に引用されることでは決してありません。しかしそれが、与えられたものを甘んじて受ける、という、謙遜と、多くの人たちと分かち合い共有するという犠牲の信仰を生み出すものであったとするならば、教えられるところもあるのかもしれません。

    与えられたのは、謙遜と感謝、分かち合いに生きるためなのです。