牧師の日常と雑感
静まりの時 マルコ10・13~16〔豊かないのち〕
日付:2025年05月10日(土)
13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
人びとが子どもたちをイエスさまのところに連れてきました。触れていただきたい、との願いをもって連れてきました。おそらくそれは祝福していただきたいということだったと思います。
ところが弟子たちは彼らを叱りました。「彼ら」とは、子どもたちを連れて来た人びとのことであり、また子どもたち自身のことかもしれません。
なぜ弟子たちは彼らを叱ったのか。理由は書かれていません。忙しいイエスさまに気を利かしたのか。余計な仕事が増えたように感じたのか。子どもたちを連れてくることを場違いなことと思ったのか。子どもには触れていただく資格がないと思ったのか。決定的なことは分かりませんが、何となく分かるような気もします。
イエスさまはその弟子たちの姿を見て「憤慨」されました。憤られたのです。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
そうして子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました。
「子どものように神の国を受け入れる」。
信仰に生きる、ということは、神の国を受け入れることです。どのように受け入れるのか。子どものように受け入れる。
子どものようにとは、さまざまに理解されるところですが、「無邪気に」ということであれば、(1)邪心のないこと。わるぎのないこと、(2)深い考えのないこと、考えの単純なこと、(3)あどけなく、かわいらしいこと、の三つが辞書に書かれています。当てはまる気もしますが、少し違うような気もします。
「受け入れる」という言葉から推測すると、わがまま放題に、ということではないように思います。邪心なく、善の心を持って、よく考えても自分の考えを中心にはおかず、といったところでしょうか。あどけない、とか、かわいらしいは当てはまらないように思います。
ある人は、子どものようにとは、子どもっぽいことではない、と言いました。
山上の説教で、心の貧しい人は幸いである、と主は言われましたので、子どものように神の国を受け入れる、とは、心貧しい、ということなのかもしれません。この「心」は、霊、という言葉ですので、霊的に貧しい者こそ、神の国に入る者、神さまの豊かないのちに生きる者なのだと思います。
子どもたちは連れて来られたのであって、自分たちでやって来たのではありません。ただ連れて来られる、ということのなかに、子どものように、ということの意味があるのかもしれません。復活の主は、ペテロに三度「わたしを愛するか」と問われ、それはあなたがご存じです、とペテロは答えました(ヨハネ21章)。そのペテロに、人を導く牧者となれと言われたのですが、その道は、他人がペテロの帯を締め、ペテロの望まないところに連れていく、という生き方である、と主は言われました。つまり、導かれる生き方です。導く生き方から、導かれる生き方へ。神の国に生きる生き方がそこにあるのだと思います。
マルコの福音書1章13節考 2025年04月28日(月) マルコの福音…
マルコの福音書1章13節考 2025年04月28日(月) マルコの福音…
静まりの時 第一ペテロ2・1~10〔新生の希望〕 日付:2025年04…
静まりの時 第一コリント15・20~28〔復活の信仰〕 日付:2025…
静まりの時 コロサイ3・1~4〔復活の信仰〕 日付:2025年04月2…