静まりの時 黙示録22・1~5〔神の栄光の都〕
日付:2024年06月22日(土)
「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。」(1,2)
救われて間もないころ、教会学校のスタッフにしていただきました。そこで子どもたちと歌った賛美歌は、いまも心にとどまっています。中でも「まもなくかなたの」は、天国を思いめぐらすすてきな賛美歌です。「たんたんたぬきの・・・」というあまり大きな声では歌うことのできない曲にもなっているといううわさもありますが。
天国には、水晶より透き通った、銀のように光る、きれいな川が流れている、そこに救われた者たちは共に集う、と歌います。
黙示録22章からつくられた賛美歌なのだと思いますが、このイメージは、旧約聖書からのものです。エゼキエル書47章を読んでみます。
1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
・・・
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」
「すべてのものが生きる」(エゼキエル47・9)。それを「いのちの水の川」(黙示録22・1)。「毎月、新しい実をつける」(エゼキエル47・12)、「その実は食物となり、その葉は薬となる」。「いのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。」(黙示録22・2)。
いのちの水の川、いのちの木。これはさらに、創世記2章。
「神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。・・・神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」(8~16)
聖書は、まるで「川」と「木」ではじまり、「川」と「木」で締めくくられているようです。その途中のエゼキエルに登場する「川」「木」は、エデンの園の回復でもあり、天国の表象でもあります。神さまの救いの御業は、エデンの園の回復と、天国への希望なのだと思います。救われるということは、エデンの園に住むことであり、天国への希望に生きることです。
「みんなで集まる日の、ああなつかしや」(新聖歌475)。「なつかしい」という言葉は、原歌詞の英文では、これに当たる単語が見つからないように思いますが、神さまのそばで聖徒たちと一緒に集まるのだ、との喜びがこの言葉に現れているのだと思います。「なつかしい」というのは、過去の思い出を懐かしんでいる、つまりノスタルジーではなく、将来を望み見て期待にあふれている、恋焦がれている、という意味です。「なつかしい」は広辞苑によると、もともと、「なつく」の形容詞形だそうで、そばについていたい、親しみがもてる、などの意味があり、思い出されていたわしい、といった過去のことへの思いは四番目に書かれていました。
「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」(3、4)
救われた者の額には神の御名が記されている。それが具体的にどういうものであるのかは想像するしかないのですが、創世記4章を見ると、弟アベルを殺してしまった兄カインが復讐によって殺されることのないようにつけられた「一つのしるし」を思い起こします。創世記4・11の、のろいは、神さまによって、そのしるしによって解決されます。人間の罪によって生まれた呪いは、いつも神さまが解決してくださいます。「もはや、のろわれるものは何もない」。
「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」(5)
私たちは、太陽の光があって、光、というものが存在しているように考えがちかもしれませんが、創世記には、まず光が創造され(創世記1・3)、その後、第四日目に、太陽と月が創造されたと書かれています。太陽に先立って、光は存在しているのです。
光も創造されたものですが、聖書は、主イエスさまこそまことの光である、と語ります。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。・・・
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネ1・4~9)
その光のもと、救われた者たちは、世々限りなく王として治める、と聖書は語ります。
黙示録22・1~5
1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。