静まりの時 黙示録21・22~27〔神の栄光の都〕
日付:2024年06月20日(木)
「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。」(22)
「見た」という言葉がたくさん記されてきた黙示録ですが、ここで「見なかった」という言葉が出てきました。本来あるはずのものを見なかった。神の都であれば当然あるはずのもの、それは「神殿」、神の宮、です。それを見なかったと、ヨハネは語ります。
イスラエルの神殿は、まずソロモンが建てました。しかしバビロン捕囚によって破壊されました。捕囚から解放されると、再び神殿が建てられます(エズラ記)。さらにヘロデ王の時代に第3の神殿が建てられました。
エジプトから解放されたイスラエルは、旅の途中「幕屋」において神さまを礼拝しました。それが約束の土地に入植し、王政が確立していくと、定まったところで神さまを礼拝すべく、神殿が建てられました。神殿は、神さまを礼拝する場所として、人びとの心に大切なものとなっていきました。しかしやがて権力と結びつき、神さまへの信仰が場所や建物への信仰にすり替わっていきました。イエスさまがこの地を歩まれた時代には、さまざまな問題を抱えるようになりました。イエスさまは「宮きよめ」によって、当時の神殿のあり方を、本来あるべきもの、祈りの家を呼ばれるべきものへと取り戻そうとされました。
しかしいまヨハネが神さまに見せていただいた「新天新地」において、天から下ってきた神の都エルサレムには、その神殿がなかったのです。神殿へのそれまでの信仰が、全く新しいものへと変えられることになります。
なぜ都には本来あるべき神殿がなかったのか。ヨハネは「全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである」と語ります。神殿、という建物ではなく、全能の神である主と子羊が、都の神殿なのです。
「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。」(23~26)
さらに、これらを照らすべき太陽も月も必要としない、といいます。神の栄光そのものが都を照らす、子羊が都の明かりである、と。この都の光によって、ユダヤ人だけではない、すべての国の人びとが歩む、イエスさまの光によって歩むのだ、と語ります。
このイエスさまの栄光が照り輝く都に、今度は、地の王たちが自分たちの「栄光」を携えて来る。都の門は、その栄光を携えて来る王たちのために閉じられることがない。そこには「夜」がないからだ。暗闇の支配するときはもはや存在しない。こうして諸国の民も、その栄光と誉れを、この都に携えて来ることになる。
神さまの栄光が輝くと、人びとの栄光も輝くようになる。それらが一つとなる。まさに輝くばかりの都となる。
天から降って来るこの神の都エルサレムの輝きを見上げていたいと思います。どんなに暗闇の中にあっても、この輝きを見失わないでいたいと思います。
「しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。」
この輝くばかりの神の都エルサレムに入ることができるのは「子羊のいのちの書に記されている者たちだけである」と聖書は語ります。「すべて汚れたもの」「忌まわしいことや偽りを行う者」は決して入ることができないのです。
新改訳2017になってこの「すべて汚れたもの」の「もの」がひらがなで表記されるようになりました。それまでの新改訳も他の訳も「者」と表記されていましたので、人間を表していたのだと思いましたが、「もの」とひらがなで書くことによって、これは人間だけではなく、さまざまな「もの」とも想像できるのかもしれません。
しかし文脈からは、やはり人間を表していると考えられますので、「者」と表記するほうが誤解が少ないかもしれません。聖書は字面的ではなく文脈的に読まないと間違ってしまう可能性があります。
都には「すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者」は入れないのです。ではその逆、すなわち、すべて汚れていないもの、また忌まわしいことや偽りを行っていない者、が入ることができるのかというと、聖書は「子羊のいのちの書に記されている者たち」だけが入ることができる、と言います。
「いのちの書」という言葉は、旧約聖書・詩篇69編28節、新約聖書・ピリピ書4章3節に出てきますが、その他としては黙示録3章5節、13章8節、17章8節、20章12節、15節、そしてこの27節に出てきます。
それが具体的にどのようなものであるのかは想像するしかありませんが、人間が書き加えたり削除したりすることのできるものではなく、神さまが主権をもって書き記される書物なのだと思います。上記の聖書箇所を思いめぐらすと、イエスさまを信じた者はすべてこのいのちの書に名前が記されていることになります。
そうすると、汚れ、忌まわしい行い、偽りの行いとは、イエスさまを信じないこと、ということになります。行いではなく、信仰が問われている。つまり汚れ、忌まわしい行い、偽りの行い、というのは、私の行動というよりも、私と神さまとの関係のこと、そのあり方を問うているのだと思います。
22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。