静まりの時 第一コリント10・15~17〔キリストの体なる教会〕
日付:2024年06月06日(木)
「私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。」(15)
コリントの教会の人びとのことをパウロは「賢い人」と呼びかけています。別訳では「分別ある者」。コリントの教会の人びとには、パウロが手紙を書かなければならない問題がありました。つまり分別がなかった、賢くなかったのです。しかしその賢くない人びとに向かって「賢い人」と呼びかけているのです。
お世辞ではありません。買い被りでもありません。信じていた、あるいは信じようとしていた、のだと思います。
信仰は、強制されたて生まれるものではありません。伝道も、首根っこをひっ捕まえて信じろと脅迫することでもありません。もしそうして信仰が生まれたかに見えても、それは聖書の語る真実の信仰ではありません。信仰は、つねに、人間の自由な判断によるものでなければなりません。自由な判断のできる環境のなかでこそ、ほんとうの信仰は生まれるのです。なぜなら信仰は、神さまへの愛だからです。愛は強制されて生まれるものではありません。
ですからパウロは、コリントの教会の人びとに、自らの判断力で判断してほしい。あなたがたはそれができる人たちだ、と信頼を語っているのです。
「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」(16)
これは聖餐式のことを語っています。聖餐式であずかるパンとぶどう汁は、キリストの体と血にあずかることである、と確認しています。教会ではそれは周知のことであるはずですが、念を押しているのです。そうされなければならない状況が生まれていたということでしょう。
この箇所は、文脈としては「偶像礼拝に対する警告」が書かれている中にあります。偶像礼拝とは、異教の宗教における礼拝行為、とまずは考えられると思いますが、聖書はそう言った表面的なことを語ろうとしているのではなく、偶像礼拝における深い問題を語ろうとしています。偶像、すなわち神さま以外のものを礼拝すること。神さま以外のもので礼拝してしまうもの。たとえば偶像のことを「アイドル」というのですが、まさに憧れと欲望をもってあがめるかのような存在。それが人であるかもしれないし、ものであるかもしれない。経済力や地位や名誉、学歴や経歴といったものも偶像化するでしょう。それらの突き詰めたところには自分への礼拝がある、と聖書は語るのです。救われるということは、この自己中心、自分礼拝から救われるということです。
偶像礼拝に対しては、聖書は「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」(14)と語ります。偶像礼拝と戦いなさい、偶像礼拝を滅ぼしなさいというのではありません。避けなさい。原文では、逃げなさい、です。なんとも消極的な印象の言葉が語られました。
では避ける方法、逃げる方法は具体的にはどうすればよいでしょうか。パウロはここで聖餐式を語るのです。それは結局は神さまを礼拝することを語るのだと思います。礼拝の中心は聖餐式です。偶像礼拝を避ける方法として、私たちはひたすら礼拝を献げるのです。真実の礼拝を献げているならば、偶像礼拝を避けているのです。
「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。」(17)
礼拝を献げることは、キリストの体にあずかることである、そのキリストの体は「ひとつ」である、と語ります。聖餐式を中心として礼拝にあずかる、ということは、キリストの体にあずかることであり、そのキリストの体は一つなのだから、それにあずかる私たちも一つなのだ、と語るのです。
聖餐式ごとに読まれる式辞には「この聖餐にあずかるとき、キリストは、私たちのうちに親しく臨んでおられます。またこの聖餐は、私たちが、主の愛のうちに一つであることをあらわすものです」とあります。
教会が一つである、というのは、集団としてまとまっている、とか、同じビジョンのうちに一つとなっているとか、そういう一つもあるかもしれませんが、聖餐にあずかっているということで一つなのだ、とパウロは語りました。
たとえ、意見がばらばらでも聖餐を共にあずかっているならば、すでに一つなのです。まったく知らない者であっても、同じ聖餐にあずかっているということで、すでに一つなのです。この「あずかる」と訳されている言葉は、共同訳では「交わり」と訳されています。
パンが裂かれるのは、この「一つ」のパンが裂かれるということに意味があります。裂かれるのは、もとが一つであることが明らかにされるためです。ぶどう汁も本来なら一つの杯から飲むことなのです。伝統的な教会の聖餐式に出席されると、その辺は分かりやすいかもしれません。衛生的な面から、今はすでに分割されたパンであり、分配されたぶどう酒なのですが、少なくとも、そのもととなるものは一つである、ということが了解されています。それを、主が裂いてくださる、主が分配してくださる、ということを、司祭や牧師が裂き、分配するということで明らかにしています。たまに信徒が自分の判断で裂いたり分配したりすることがあるかもしれませんが、パンとぶどう汁への畏れが大切にされるためには、それはしないほうがよいでしょう。キリストの体と血への畏れを大切にしたいと思います。
聖餐式について、聖書の語る意味は、二つです。一つは「罪の赦し」、もう一つは「交わり」。私たちは聖餐式を中心にした礼拝において、イエスさまの十字架と復活によって自らの罪が赦されたことを感謝します。そして、一つの信仰共同体に加えられたことを感謝し、喜ぶのです。
少し蛇足ですが、パンとぶどう汁は、この二つの意味のみであって、これ以上でも以下でもありません。パンとぶどう汁が、キリストの体と血である、というのは、十字架と復活の信仰があって現実となるものです。実体的に変化するのでも、ぎゃくに単なる象徴でもあります。実体的に変化するならば、信仰がなくても効力があることになります。それはさらに、ご利益のある物素となり「これを食べると病気にならない」とか「何か良いことがありますよ」という、もはや偶像礼拝としか言いようのない状態になります。かつて世界を震撼させたカルト集団にはこういうことが見かけられたように思います。また逆に単なる象徴でもありません。コロナの時に大勢での聖餐式ができず、少人数で行ったあと、集えない人たちのところへ、その聖餐式で祈られたパンとぶどう汁を運んだ教会もあったと思います。祈られたパンとぶどう汁は、単なる象徴ではないのです。それ自体を大切にします。聖餐式で余ったパンとぶどう汁を、もう式は終わったからといって、他のことに利用したり、その辺にいる誰かに与えてはいけません。この辺をよく理解している教会では、余ったパンとぶどう汁は、大切に集めて牧師さんに渡してくださいます。この辺の問題は、聖餐式の準備は教職者がする、ということで、回避できるのではないかと思います。
それにしてもこういったことは、教会で語られれる説教を真摯に聞いていれば了解されているはずのことですが、どうして混乱が起こるのか理解に苦しみます。
15 私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。
16 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
17 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。