静まりの時 ローマ12・3~8〔キリストの体なる教会〕
日付:2024年06月05日(水)
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。」
パウロは、「自分に与えられた恵み」によって語る、といいます。自分の知恵や能力によって語るのではなく、神さまから与えられた恵みによって語る。いったいどういうことだろうか。
私たちが何かを語る、というときに、その動機となっているもの、その原動力となっているものはいったいなんであるのか。疑問があって問いかける、という言葉。何らかの主張があって発表するという言葉。どうしても理解してほしいとの願いをもって語る言葉。責任上語らなければならない言葉。さまざまな言葉を語りますが、その原動力となっているのは何か。なぜ語るのか。語ることによってどうなりたいと考えているのか。あいてをどうしたいと願っているのか。
パウロは、自分に与えられた恵みによって語る、という。これから語る言葉は、私が語る言葉ではあるが、神さまが語らせようとしている言葉なのだ。それは決して強権的に、あるいは神がかり的に語るのではない。恵み深い神さまのその恵みが豊かに注がれるための言葉なのだ、と。そのために、自分自身がまず神さまの恵みに満たされている者である。その感謝を確かにしている、そうして語る、ということ。
恵みによって語る、ということ。私が語る言葉は、たいてい自己中心的な言葉になってしまう。不満に満ちた言葉、文句、のろい、自分こそ偉いのだ、なんでも分かっている、賢いんだ、という言葉を語ろうとする。あるいは自分の価値を確認するための言葉になってしまう。
そうではなく愛に満ちた言葉を語りたいと願う。そのためには、神さまの恵みが注がれていることを見失ってはならない。まず自分自身が神さまの恵みに満たされて、そこで語り始める言葉。そんな言葉を語りたい。
「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい」。
思うべき限度を超えて思い上がってはいけない。新共同訳では「自分を過大に評価してはならない」、共同訳2018では「分を越えて思い上がることなく」。
信仰に生きる、ということは、何者かになったかのようなことではない。信仰を持つことによって、スーパーマンになることではない。健やかな信仰というのは、自分の分をわきまえることができる信仰である。自分を正しくとらえることができる。高慢になることでもなく、逆に自己卑下することでもない。ただしく自分を生きる。等身大の自分を生きる。聖書的な信仰は、そのような生き方を可能とするものである。
自分は思い上がってはいないだろうか。逆に自己卑下してはいないだろうか。この両極的な生き方は、対極にあるのではなく、表裏一体です。思う上がりたくなる、あるいは思い上がらなければいられないのは、劣等感のなせるものなのだと思います。本当は自分に自信がない。自分を正しく愛せていない。そんなゆがんだ心が、その劣等感を隠すために高慢にさせてしまう。思い上がる人、というのは実は弱い人なのです。本当に強い人は、自らの分をわきまえ、健やかに、謙遜に生きることのできる人です。
それらは、自分一人で生きているときには、あまり表面化しません。誰かとともに生きている中にあって、クローズアップされます。
「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです」。
信仰生活というとどこか個人的な生活を考えがちですが、聖書の語る信仰は、どこまでも教会共同体的です。信仰生活というのは、ほとんどイコール、教会生活のことです。教会生活が後回しになっていて、信仰生活に生きている、などということは、ことキリスト教信仰においてはあり得ないのです。
「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っている」。
この「恵み」と訳されているのは、原文ギリシャ語で「カリス」、「賜物」と訳されているのは、同じく原文ギリシャ語で「カリスマ」。同じ語源の言葉です。
賜物というのは、神さまの一方的な恵みによって与えられたもの、です。そしてそれは、それぞれに異なっている、違いがあるとパウロは語ります。
この世にはいろいろな宗教がありますが、健全な宗教は色とりどりです。そうでない宗教は、既製品のビスケットのようなもので、みんなおんなじ顔をしています。あるいはおんなじ顔となるように教育されてしまう。
聖書的信仰とは、色とりどりなのです。これは第一コリント12にも同じようなことが書かれています。
「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。」(第一コリント12・27~30)
違いがある。しかしその間には優劣はない。同じようになる必要はまったくない。それが、分をわきまえて生きること、健全な教会生活を送ることを私たちに得させます。
異言は、ちょっと特別な感じのする賜物ですから、つねに誤解の危険にさらされています。異言は、異邦人伝道という当時としてはかなり緊急事態というか異常事態というか、まったく新しい扉が開くところで起こった現象として聖書に記述されているようです。聖書に書かれているのですから、確かに存在するものである、とはいえると思いますが、聖書では、多分に否定的な論調の中で扱われています。今日には存在しないとまで言う人もいますが、それはちょっと分を越えている言い方であって、やはり許容範囲であると思います。ただ聖書には、それが教会に大きな混乱をもたらしたということから、否定的な論調の中に記述されていることは共通理解しておかなければなりません。
聖書の主張によると、異言は一つの賜物である、ということです。それが与えられているからといって優越感に浸ることもないですし、与えられていないからといって劣等感に沈むこともありません。たとえばピアノを弾くことができる人を、素晴らしいと思いますが、それで教会の中でのランキングの高いところにおられることではないでしょう。異言は、数ある賜物の一つであり、一つに過ぎないのです。
ただピアノを弾くとか、掃除をするとか、料理をするというのとは、違った色合いが異言にはあると思います。というのは、一般的な生活の中に存在しないものだからです。他の賜物は、教会生活の外でもあんがい見かけるものです。しかし異言だけは、なにやら超自然的な感じ、というか、普段の生活にはないものですね。
ですからそれを見た人は、誤解をするのです。「教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか」(第一コリント14・23)。一つの誤解は、気が変になっていると思われるという誤解。もう一つは、「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます」(第一コリント14・4)。この自らを成長させるというのは、結局教会を成長させることにならない、ただ個人的なことで終わってします、ということですが、やはりもてはやしたり、高慢になったりという道を開いてしまう、という誤解でしょう。
ということで、パウロは勧めます。「だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい」。解き明かしを命じたということは、そこに独善性を排そうとしたということかもしれません。
ということで、次の言葉は一つの結論ではないかと思います。
「それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は、信じていない者たちのためではなく、信じている者たちのためのしるしです。」(同、22)
これを竹森先生は以下のように説教されています。
「しかし、異国の言葉で語られたために、理解できない、というのは、あたりまえのことではないでしょうか。しかし、この聖書は、それと同じことが、異言についても起こっている、と言っているのではないでしょうか。
しかたって、そう言いながら、「このように異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためでなく、信者のためのしるしである」といっているのであります。
このことは、普通に考えることとはちがうのではないでしょうか。異言こそは、信者のためにあり、預言は、未信者に分からせるものではないか、と思われるのであります。現に、このあとには、異言を語ったのでは、未信者は分からないが、預言を語れば理解できる、と書いてあります。パウロは、何を言おう、とするのでしょうか。
それは、神は、その民に分かるように、預言をもって語ったが、民はそれを受け入れようとしなかったので、今は異国の言葉にひとしい異言を語ることによって、神の言葉のしるし、とされたのであります。それは、見えない者は、ますます見えず、聞こえない者には、さらに聞こえなくする、ということと似ているのではないか、と思います。それは、要するに、語られるのは神である、ということのしるしである、といえるのであります。そのしるしは、恵みともなり、審きともなるのであります。
神は、人を救うためにお語りになります。しかし、神が語る、ということは、いつでもきびしいことであります。神は、ことさら御言を受けようとしない者のためには、かえって、理解できない言葉を用いられるのであります。それが、神が、神として語る、ということなのであります。」(竹森満佐一、『講解説教・コリント人への第一の手紙』、心境出版社、1988年、524頁f)
ということです。
「それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい」。
自分の分をわきまえる、ということは、決して自己卑下して生きることではありません。与えられた賜物が皆それぞれあるのです。人との違いをそのままに、自分に生きればよい、と主は励ましていてくださるのです。
『私と小鳥と鈴と』 金子みすゞ
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。ローマ12・3~8(新改訳2017)
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。