御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです

静まりの時 ローマ8・26~30
日付:2024年05月28日(火)

26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
(26~27)

 聖霊は弱い私たちを助けて下さいます。
 この「助ける」という言葉は、ちょっと珍しい言葉だそうです。

「ここにありますこの言葉が珍しいというのは、三つの言葉をくっつけてできた、ひとつの言葉だからでもあります。ひとつは『いっしょに』という言葉であります。二番目は、『変わって』という言葉です。三番目は、『取る』、『受け取る』、そういう意味の言葉です。お分かりだと思うのです。ふうふう言っているところに、『一緒に立って働いてくだる、辛いなあと思う仕事を代わってくれる、自分の重荷を受け取ってくれる。『どれどれこっちへ寄越してごらんなさい』。そして自分の傍らに立って一緒に働いてくれる。神の霊はそういうふうに私どもの手助けになる方であるのだと、言うのであります。」
(加藤常昭、『ローマ人への手紙3』、ヨルダン社、1990年、78頁)

 私たちは弱いのです。信仰を持つということは、自分は弱い、ということを知ることです。そしてそれを健やかに受け入れることです。
 その弱さとはいったいなんであるのか。御霊に助けていただかなければならない弱さとはいったい何か。
 「私たちは、何をどう祈ったらよいか分からない」。それが私たちの弱さである、とパウロは語ります。どう祈ったらよいか分からない弱さ。その弱さの中に沈み込んでしまう私たちを御霊は助けてくださる。それは祈りを与えて下さるということでしょう。
 しかし続く言葉が不思議です。
 「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」。
 とりなしてくださる、というのは分からないでもないのです。しかしそれを「ことばにならないうめきをもって」とりなしてくださる、というのです。私たちが、ことばにならないうめきの中にある、というのではなく、御霊ご自身が、ことばにならない、言葉にすることができないようなうめきのなかにおられる。そのようなうめきをもって、私たちをとりなしてくださる。ことばを越えた祈りがここでなされていく。そうしてどう祈ったらいいか分からない私たちを助けてくださる、というのです。

 続いて27節。
「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。」

 少しわかりにくいと思いますので、口語訳(協会訳)で読んでみましょう。

「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」(27節、口語訳)

 神さまは、聖霊の思いが何であるのかを知っておられる。その神さまは人の心を探り知る方である、見極めておられる。なぜそのように言うことができるのか。それは聖霊は、主イエスさまを信じる者たちのために、父なる神さまの御旨にかなうとりなしをしてくださるからである。
 父なる神さま、聖霊なる神さま、そして主イエスさまを信じる私たちの心が、ここで一つとなっているような言葉です。

 私たちはどう祈ったらよいのかわからないのです。しかし、神さまは何でも知っていてくださる。言葉にならないような祈りをもって祈るほどに、私たちを助けようと願っていてくださる。そうしてその三位一体の神さまの交わりの中に私たちを招いていてくださる。
 三位一体の神さまを信じる者の祈りは、いつもこの大安心の中にある祈りなのです。


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