静まりの時 使徒19・1~7
日付:2024年05月25日(土)
1 アポロがコリントにいたときのことであった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。
2 彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。
3 「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。
4 そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
5 これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。
6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。
7 その人たちは、全員で十二人ほどであった。
パウロがその伝道の旅の中で、エペソの教会を訪ねたとき、そこにいた「何人かの弟子たち」に尋ねました。「信じたとき、聖霊を受けましたか」。
そのように尋ねなければならないようなことがあったのでしょう。具体的に言い表すことができないけれども、何かが違う、おかしい、と感じたのだと思います。
しかし、「信じた」にも関わらず「聖霊を受けていない」ということが果たしてあるのか。正統的なキリスト教会の理解では、信じて洗礼を受けるというその洗礼は、三位一体の神の名によって授けられる洗礼なので、そこで聖霊が与えられる、ということが起こるのです。
彼らは答えました。「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」。ではどのようなバプテスマを受けたのか。彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えました。
ヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマ(ルカ3・16)でした。しかしイエスさまを信じて受けるバプテスマは聖霊のバプテスマです。ここに初代教会における洗礼理解の混乱が見て取れると思います。
しかし今日の教会においてそのような混乱がないのか、と言われると、どうもそうも言いきれないところがあるようにも思います。洗礼もそうですし、聖餐も、信徒においてはかなり異なった理解がされている、また、教会においてもさまざまな理解をしてしまっているところもあるようです。
そこであらためて洗礼が授けられることになりました。その結果、
「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」(6)
これを、洗礼を受けるとこのような現象が起こると理解してしまうと、何やら迷いの方向に入り込んでしまうような気がします。
異言と預言の賜物については、第1コリント12章に記されているとおり、洗礼を受けた者がもれなくすべて賜る賜物ではなく、教会を建て上げるためにそれぞれに与えられた賜物の一つです。与えられたからといって優越感に浸る必要もなく、与えられないからといって劣等感を持つ必要もないものです。
ではなぜこのようなことが記されているのか。続いて「その人たちは、全員で十二人ほどであった」とありますので、ここに教会が生まれたのです。
つまりパウロがエペソの教会に感じた違和感、問題点は、それぞれに信じたとは言うものの、そこに教会が建て上げられていなかった。個人的な信仰はあったかもしれない。しかしそれが共同体の中に生きる信仰となっていなかった。互いに自らの賜物を生かし、互いに仕え合う共同体的な信仰ではなく、はなはだ個人主義的な信仰といわざるを得ない状況であった、と推測できます。パウロは、洗礼を受けるということは、キリストのからだの一部分になることである、と改めて指導したのだと思います。
こうしてパウロの伝道によって、エペソに教会が生まれ、教会が建て上げられていきました。聖霊は、まさに教会を建て上げる神さまの霊、神ご自身です。