私はどんなことにも支配されはしません

静まりの時 第一コリント6・12~20
日付:2024年05月20日(月)

「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。(12)

「すべてのことが私には許されている」。
 聖書において括弧書きの中に入れられている文章は、会話の言葉であったり、他の書物からの引用であったり、当時の教会で繰り返し語られていた言葉であったりと、さまざまですが、これはおそらくコリントの教会で良く語られていた言葉だったのでしょう。10章の23節にも出てきます。
 すべてのことが私には許されている。コリントの町は約八割が奴隷であったと言われます。何をするにも主人の許可が必要で自由のない人たちが数多くいたようです。そのような中からイエスさまを信じて救われた、教会生活を始めるようになった、そこで、自由を得た、と感じた人たちもたくさんいたと思います。社会ではさまざまな制限が課されている、しかし教会に来れば自由だ、すべてのことが私には許されているのだ、と解放感に浸ることも多かったのだと思います。
 しかし自由を得た人たちは、その自由をどのように生きることになったのか。
 コリントの町は山裾にあり、その山頂にはアフロディーテ(アシュタロテ、愛の女神)の神殿、つまり異教の宗教施設がありました。そこでは偶像礼拝が行われていたのですが、それだけではなく、神殿娼婦という存在が置かれて、宮もうでに来る人に対して特別なサービスが行われていたというのです。
 イエスさまを信じて教会生活を行うことになったけれども、このような因習の中に生き続けていた信徒も多くいたようで、そこで便利に用いられた言葉が、「すべてのことが私には許されている」だったのだと思います。信仰をいただいたので私は自由だ、何をしても許されるのだ、と。

 しかしパウロは語りました。

「すべてが益になるわけではありません」、「私はどんなことにも支配されはしません」(12)。

 確かに何をしても自由なのだが、それが「益」となるかどうかは別のことである、益とならないことも数多くある。自由だからといってしようとしていることは、本当は自分の欲望や願望の奴隷となって、そうしたくて仕方がなくやっていることではないか。それは本当の自由の中でしていることではないのではないか、と問いかけました。

13 「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。
14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。
15 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。
16 それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
18 淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

 イエスさまを信じたということは、もはや自分のからだは自分のものではなく、主と一体となったのであり、自分のからだは、聖霊の宮となったのだ、と。

 聖なる霊がお住まいになる宮、神殿である。それがキリスト者なのだ、と。

 私という存在は聖霊がお住まいになっている神殿である。
 昨日も聖霊とは「イエスは主です」と告白する霊であり、聖霊の働きは私たちに「私の主はイエスさまです」と告白させることである、と学びました。聖霊に満たされる、とは、イエスさまが私の主である、との生き方に全身が満たされることであり、それはそれまでの「私が主である」という生き方から180度変えられることである、と学びました。聖霊に導かれるままに、というのは、イエスさまを主として生きる道を選択していくことです。時折私たちが聖霊の導くままに、という言葉を結局は自分の欲望や願望に引きずられていることの言い訳にしているのではないか。本当に聖霊に導かれた人は、その人自身の欲望や願望は後回しにされ、皆の益を求めつつ謙遜と従順に生きているはずである、と。
 私は聖霊の宮である、ということは、その宮の中心にお座りになっておられる三位一体の神さまが喜ばれるようにと、部屋の隅々いいたるまで整えることです。私たちは、みな神さまのご栄光を現す生き方へと招かれているのです。

 5月上旬に、教会のフロアにワックスがけが行われ、ピカピカになりました。今はもう慣れましたが、最初は足を踏み入れるのに躊躇するほどでした。床でさえそんな気持ちにさせられるのですから、ましてや自分自身が、聖なる霊がお住まいになってくださるようになってくださり、一新されたのですから、その自分を大切に生きようとすることはごく自然なことだと思います。「すべてのことが私には許されている」といって、好き勝手に自分を生きるなどということはできないことだと思います。皆の益となるために、自分の欲望や願望に支配され、その奴隷になることなく、イエスさまを主とした生き方を前進したいと思います。


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