私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。

静まりの時 ガラテヤ1・11~17
日付:2024年05月17日(金)

11 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
12 私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
15 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

 かつてキリスト教会を迫害したパウロは、イエスさまとの劇的な出会いによって回心し、キリストを宣べ伝える者となりました。その時の経験を振り返りつつ、自分はこの福音を人間から受けたのではない、神さまから直接いただいたのだ、と語りました。
 使徒の働き9章、22章などを読むとこの説明と少し違うようにも思えますし、第一コリント15章3節の「 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと・・・」とありますので、パウロは決して神さまからの、いわゆる直接的な語りかけを聞いてその言葉を宣教した、というのではありません。
 おそらく実際は、使徒9章のようなことだったのだと思います。パウロは、キリストとの決定的な出会いによって、目が見えなくなり、ダマスコのアナニアとの出会いによってふたたび見えるようになり、そうして兄弟姉妹との交わりをいただきました。使徒たちとの出会いがありました。そこで、福音を真理を学び、今まで自分が信じていた当時のユダヤ教、すなわち旧約聖書を土台とした律法主義的な信仰が再構築され、十字架と復活の信仰へと導かれたのだと思います。多くの人の祈りと励まし、そして多くの人たちの間での学びと訓練、研鑽があったことは想像に難くありません。そうして後、伝道者として神さまの言葉を語ったのです。
 しかしそれをこのガラテヤ書では、あえて「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」と語ったのです。そう語らなければならないパウロの事情、あるいはそう語られなければならなかったガラテヤ教会の事情があったのだと思います。

 実際は先輩のキリスト者から教えられた福音を、ここで、直接的に神さまからいただいたものなのだ、と言わなければならなかった事情。それはガラテヤ教会の中にあったパウロの使徒職への疑問だと思います。パウロは迫害者だった、12人の弟子の一人ではない、キリストの生き証人ではない、などなど、疑いを抱く材料はいくつも数えることができます。ガラテヤ教会の中にはパウロを使徒と認めない信徒も多かったのだと思います。ですからパウロからの手紙が来てもあまり重要視しなかったのだと思います。
 しかしガラテヤ教会には、このような手紙を送られなければならない問題が起こっていました。イエスさまを信じることによって救われる、という福音が、ガラテヤ教会においては変化し、ガラテヤの兄弟姉妹は「ほかの福音」(ガラテヤ1・6)に移ってしまったのです。ほかの福音といってもほかに福音があるのではありません。ほかの福音とはここでは「律法主義」のことです。神さまの一方的な恵みによって救われた、という本当の福音から、やはり人間の行いも大切ですよ、というほかの福音、偽物の福音に移ってしまったのです。
 律法主義とは、人間の行いによって救い、あるいは祝福、神さまからの賜物などが与えられるという考え方です。祈ったら病気が治る、祈ったらお金持ちになる、良いことをすれば祝福がやってくる、善を行った者には永遠のいのちが与えられる、などなど。いずれも完全否定することではなく少しの真理を含んではいますが、聖書の語る福音は、そういうご利益主義的なものが本流ではありません。しかしこのご利益主義的な信仰の土台となる律法主義は、分かりやすく、人間にとっては願ったりかなったりの宗教なので、移っていきやすいものなのです。

 聖書の語るまことの福音は、死をも乗り越えるまことの祝福を私たちの約束するものです。似て非なる「ほかの福音」が語られてしまう教会であるならば、そこには真実の救いはありません。ですからガラテヤの信徒たちにはどうしても分かってもらわなければならない、どんなに立派な会堂が立ち、きらびやかで霊的な雰囲気の礼拝が行われ、多くの人びとが集まったとしても、似て非なる福音が語られているとすれば、もはやそれはキリスト教会ではない。そんなパウロの必死な思いが、このような言葉になったのだと思います。

 教会で牧師が説教をする。それは一人の人間が、多くの先輩たちから、そして二千年のキリスト教会において伝えられたものを、学びと訓練によって習得し、今を生きる信仰生活の中で、祈りの中から、あらためて神さまからの言葉としていただき、それを、礼拝において語る。その礼拝は、人類史上一回限りの「時」そして「場」です。いわば二千年の教会の礼拝が、その「時」と「場」に集中する。そして、その「時」に、その「場」で語られる「言葉」を聞く。語る牧師も語られる会衆も聞く。神さまからの直接的な言葉、神さまからの語り掛けとして聞く。それは信仰なくして起こりえない神さまの御業です。説教はまさに奇跡なのです。

 「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」。


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