静まりの時 エペソ3・1~13
日付:2024年05月15日(水)
「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。」(8-9)
異邦人のための使徒となったパウロは、その務めのために今囚われの身となっています。しかし自らが囚人となった原因であるその務めを「神の恵みの務め」(2)と語ります。
この神の恵みの務めを、さらに「奥義」であると語ります。新共同訳では「秘められた計画」、共同訳2018では「秘儀」。
その奥義とは、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです」(6)。
ユダヤ人にとって、異邦人が救われる、ということは考えられないことでした。しかしそれが実現したのです。それは今まで隠されてきた秘儀である、それがいま明らかにされた、それは「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義」(9)であったが、いますべての人に明らかにされたのだ、とパウロは語ります。
このように秘儀が明らかにされたのは、「今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるため」(10)であった。「天上にある支配と権威」「が」ではなく、「天上にある支配と権威」「に」知らされるためである、と。天上にある支配と権威でさえ、この奥義は知らされなければならないものであった、それまでは天上にある支配と権威でさえ知らなかったことなのだ、と。
それを知らせるのは、「教会」である。教会は、天上にある支配と権威に対しても、異邦人の救いという奥義を知らせる役割を持っているのです。これは神さまの永遠のご計画であり、私たちはこの奥義によって、大胆に神に近づくことができるのだ、と。
このような務めのためにパウロは囚人となっているのですが、それをパウロは神の恵みであると語り、このように自分が囚人となっていることで落胆しないでほしい、自分が囚人となっていること自体、あなたがた異邦人の栄光なのだ、まさにあなた方のために神さまがお働きなっておられる証拠なのだ、と。
私たちの目に苦難としか見えないところに、実は、神さまは豊かにお働きになっておられる、神さまが豊かにお働きなっておられる証拠は、私たちの目に苦難としか見えないところにも豊かに現れされている、苦難自体が神の栄光なのだ、と。
「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私」(8)
パウロは自らを「最も小さな私」と語りました。原文で「小さい」という意味のことばです。新共同訳では「つまらない」と訳しています。
これは決して「謙遜」ではありません。謙遜というのは、相対的な関係の中にあって、自らを低くすることです。そこで低くしているのは「自分」です。ですから謙遜することによって、結局自分を高めようとしています。謙遜の徳を積もうとしているのです。パウロはそのような謙遜をしているのではありません。「すべての聖徒たちのうちで」と語りますので、他の聖徒たちと自分を比較しているようですが、パウロがこのように考えることになったのは、神さまとの決定的な出会いによるものです。パウロは、神さまの前に立ったとき、自らが最も小さなもの、取るに足りない、つまらないものであることを知ったのです。ですから謙遜を語っているのではなく新しく知らされた自らの実態に基づく真実を語っているのです。
そのようなパウロに、神さまは「この恵みが与えられた」。すなわち異邦人への伝道者としての務めが与えられた、と語ります。それは「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです」。
神さまの前に立ち、自らが聖徒のうちでもっとも小さい者であると知った者に、神さまは大切な務めを託してくださいます。神さまは高慢な者、謙遜の徳を積もうとする者にご自身の務めを託されることがありません。逆に自己を卑下したり、自己憐憫に陥る者に託されることもないでしょう。神さまの前に立って正しく自らの小ささを知る者に託されるのです。
自らの小ささを知っている者だからこそ、隠されてきた神さまの奥義を伝えることが可能となるのだと思います。