人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る

静まりの時 エゼキエル2・1~7
日付:2024年05月13日(月)

1 その方は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」
2 その方が私に語りかけると、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。そのとき、私は自分に語りかけることばを聞いた。
3 その方は私に言われた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。
4 彼らは厚かましく、頑なである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう言われる』と言え。
5 反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、彼らは自分たちのうちに預言者がいることを知らなければならない。
6 人の子よ。あなたは彼らや彼らのことばを恐れるな。あざみと茨があなたと一緒にあり、サソリの間に住んでも、恐れるな。そのことばを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。
7 彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。
(1-7)

1 その方は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」
2 その方が私に語りかけると、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。そのとき、私は自分に語りかけることばを聞いた。

 「自分に語りかけることば」を聞いた「そのとき」とは、「霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた」ときでした。
 その「霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた」のは、「その方が私に語りかけ」られたからでした。「その方」は、先立って私に向かって語っておられます。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る」。
 神さまがまず「自分の足で立て」と語られ、その神さまの語りによって、私のうちに霊が入り、私を自分の足で立たせ、それによって神さまが自分に語りかけることばを、私が聞いた、とエゼキエルは語ります。

 いったい「私」はいつ神さまの語りかけを聞くことができたのか。
 自分の足で立つことができたときに、神さまのことばを聞くことができました。しかしそれに先立って、すでに神さまが語りかけておられ、その語りかけによって、自分は自分の足で立つことができるようになった。神さまのことばが先立ち、神さまのことばを聞く備えがなされ、そうして神さまのことばを聞く者となった、のです。
 罪びとである私たちは、神さまのことばを聞く備えが自らの力ではできません。その備えを為してくださるのは神さまご自身です。神さまの備えをいただいて、私たちは神さまのことばを聞く者となります。その神さまの備えとは「自分の足で立つ」ことです。

 自分の足で立ってはじめて、「自分に語りかけることば」を、私たちは聞くことができます。自分の足で立っていないならば、誰かに語りかけられている言葉は聞いているかもしれませんが、自分に語りかけることばを聞けてはいないのです。
 自分の足で立ち、自分に語りかけることばを聞いて初めて、私たちは、語りかける者、となります。

「人の子よ。あなたは彼らや彼らのことばを恐れるな。あざみと茨があなたと一緒にあり、サソリの間に住んでも、恐れるな。そのことばを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。」(6,7)

 説教者は、神さまの前に自分の足で立ち、自分に語りかけられる神さまの御声を聞き、そうして会衆に語ることが可能となります。そこで語ることばは、たとえ会衆が聞こうが聞くまいが関わりなく、語ることばであるといいます。
 説教者には、会衆が聞きたい言葉を語りたくなる誘惑があります。しかし説教者はその誘惑に抗って、神さまのことばを語らなければなりません。そのためには、語るときも、自分の足でしっかりと立っていなければなりません。そして自分の足でしっかりと立つために、神さまによって立たせていただかなければなりません。
 自分の足でしっかりと立って、自分に語られたことばを聞き、そうして語ることばは、たとえ会衆にとっては聞きたくないことばであったとしても、真実に会衆を生かすいのちのことばとなるのです。


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