静まりの時 イザヤ66・18~23
日付:2024年05月10日(金)
「わたしは彼らのわざと思いを知っている。わたしはすべての国々と種族を集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。」(18)
すべてのことをご存じの神さまが、「わたしのすべての国々と種族」を「集めに来る」と言われました。そうしてやって来た「彼ら」は、神さまのご栄光を見る、と重ねて言われました。
栄光とは、栄える光、と書きますが、原文のヘブル語では「重たい」という意味を持っている言葉ですから、神さまの存在感が明らかになるほどの光、です。
確かに神さまは生きて働いておられる。人間の目には見えないお方だが、その見えないお方が確かに存在しておられることを、集められた人々は確かに見る、のです。そうして、「新月の祭りごとに、安息日ごとに、すべての肉なる者がわたしの前に来て礼拝する」と主は言われました。
神さまの栄光を見る、ということと、すべての人が一つに集められて、ともに神さまを礼拝する、ということとが一つになっています。神さまの栄光を見る、ということは、すべての人が一つに集められてともに神さまを礼拝するという結果を生み出します。あるいはすべての人が一つに集められてともに礼拝するということが、神さまのご栄光を見ている、ということの証しでもあるのだと思います。
一つに集められてともに神さまを礼拝していない状態では、いまだ神さまのご栄光を見ているとは言えません。神さまのご栄光を見ていると言いつつも、一つに集められてともに礼拝していない、ならば、そこで見ている栄光は、本当の神さまの栄光ではありません。
一つとなっていない、ということは、神さまご自身があらゆることに先立って大切にされていない、ということです。一つになっていない、ばらばらである、ということは、それぞれの自己主張が神さまご自身の御心よりも優先されているのです。
さまざまな違いを持つお互いが、違いをそのままに、一つとなる、ということが実現するとすれば、それぞれを大切にしつつも、それを超える存在に出会い、その確かなお方を自分よりも優先することによって実現するのです。
その自分を超えるお方が、まことに私のことをご存じで、なおかつ愛のお方であり、私にとって最善の道をご存じで、それを実現することのできる全能者である、ことを信じている私たちは、神さまを第一にし、自分のことをそのお方にゆだねることこそ、本当に自分を大切にすることであると信じています。