静まりの時 エペソ2・11~22
日付:2024年05月06日(月)
「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(14-16)
エペソは、現在のトルコ西岸の都市。異教のアルテミス神殿があったとのこと。その地に生まれたキリスト者に向かって書かれた手紙がエペソ人への手紙です。最初の読者は、キリスト教徒となった異邦人、あるいは異教の世界に生きたユダヤ人キリスト者であったと推測されます。
キリスト教の宣教が世界に拡大されることで、教会にはさまざまなルーツを持つ人たちが集まるようになりました。持って生まれた文化や考え方はそう簡単には変わりません。お互いの間にいくつもの乗り越えなければならないことが起こったようです。それは今日も同じです。
ルーツの違いで最大のものはユダヤ人と異邦人でした。具体的には割礼を受けているか否か、旧約聖書に記された律法を遵守するか否か。簡単には乗り越えることが難しい問題でした。
違いがある中で、できるだけ平和に過ごすために、私たちはどのようにそれを乗り越えるのでしょう。
教会の歴史を見ると、身分や立場、男女で座る席を別にしたり、人種によって教会を分けたり、敵意が起こりそうなところで、交通整理をして、居場所を別にしたことも多かったようです。しかし聖書の基本は、イエスさまの十字架によってその間にある「隔ての壁である敵意」は打ち壊されたのだから、「一つのからだ」となるようにと勧めます。
一つとなることを難しくさせているのが「敵意」、それを一つと成そうとしているのが「和解」。この和解は十字架によって成された。和解はまず「神との和解」。そしてその「神との和解」をいただいた者が、互いの和解へと招かれている、とパウロは語ります。
律法を守るか守らないか。これは私たちにとってはちょっとピンとこないことかもしれません。
ユダヤ人にとって律法を順守することは、それはそれは大切なことだったのだと思います。彼らにとっては、聖書に書いてあることであり、神さまが直接的に命じられたことであり、長い年月守られてきたことであり、守らなかったことで多くの問題を生み出したという歴史的な出来事も経験したことでした。異邦人キリスト者のあり方を受け入れるのは、大変なチャレンジだったのだと思います。
異邦人にとってもそれは同じことだったと思います。イエスさまを信じて新しくされた。そうであれば、どうして律法を守る必要があるのか。そもそも割礼などといっても、これだけ女性信者も増えている中にあってはナンセンスではないか。イエスさまを十字架につけたのはユダヤ人指導者ではなかったか。律法を守るということを口実にしてイエスさまを十字架につけたのはユダヤ人ではないか、などなど。
この二つの間の敵意を、初代キリスト者は乗り越えようと努力をしました。イエスさまの十字架によって自分たちは一つにされているのだ、一つにされているにふさわしい者となろう。なぜなら自分たちはもう神さまと和解させられているのだから、いたずらに違いを強調して敵意をあおることをよそうではないか、と。
譲ることのできないことは譲ってはいけません。しかしどうでもよいことにこだわるのもどうなのだろうか。
男女、高齢者、子ども、外国人、都会と田舎、若者、経済的格差、LGBTQ、世界各地の民族紛争、などなど、現代において「隔ての壁である敵意」はますます複雑になっているのだと思います。どう乗り越え、どのように一つとなっていくのか。神との和解をいただいた私たちへの大切なチャレンジだと思います。