静まりの時 第一コリント5・7,8
日付:2024年04月26日(金)
7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。
コリントの教会は、さまざまな問題を抱えていました。問題のことをここで「古いパン種」と語っています。
パンを焼くとき、焼く前のパン生地を少し残しておきます。次にパンを焼くとき、それをパン種として、練った小麦粉を発酵させるのです。少しのパン種が練った小麦粉全体を膨らませます。
そのように、教会に少しでも問題があると、それが全体に影響を及ぼしてしまう。パウロはそれをゆるがせにしないで、しっかりと解決をせよ、と語ります。
ここでの問題とはいったいなんであったのか。
「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか」(1,2)。
ここには、二つの問題があります。一つは不品行、もう一つは思い上がり。
信仰をいただいて新しくされたといっても、それまで培われてきたことは、そう簡単に消えるわけではありません。信仰生活は、清められていく生活でもあります。古い自分が消え去り、日々新しくされていくのです。信仰生活が長ければ、それだけ聖くされていくのか、というと、今度は年齢とともに人間は煮詰まっていきますから、ますます古い性質が顕著となるということも起こってきます。
パウロは、この問題を解決するにあたり、非常に厳しい態度をとりました。
「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。」(3-5a)
このような厳しい対応の目的を、「それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(5b)と語ります。どこまでも救いのためというのがパウロの目的でした。滅ぼすためではないのです。
主によって救われた、ということは、種なしパンになった、ということです。すでにイエスさまが十字架において犠牲を払ってくださったのですから。救われた者は、みな聖く生きるのです。その力をいただいているはずなのです。
教会が、まことの礼拝をささげ、まことの救いを語り続けるために、ときに教会内に起こる問題に対処しなければなりません。教会は、罪赦されたとはいえ依然罪びとの集まりなのですから。
対処の仕方はいろいろあると思います。パウロはさまざまな対応の仕方があることを十分に知りながらも、「からだは離れていても霊においてはそこにいて」と語ります。霊的な対処、信仰的な対処をします。
「誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」
誠実と真実、というよく似た言葉が使われています。誠実は兄弟姉妹に対して、真実は神さまに対して、まっすぐである、ということかもしれません。あるいは、とにかく後ろ暗いところのないように、公明正大で正直で、ということを強調したかったのかもしれません。そもそもこそこそとやらなければならないということ自体にすでに問題が潜んでいることでしょう。
種なしパンで祭りをしよう、という言葉から、聖餐式のパンを種なしパンで祝おうとすることもあるかもしれません。逆に、主のからだと血を覚えるためには、普段食しているもの、日々の糧として一般的なもののほうがよい、ということで、普通のパンを用いることを大切にすることもあるかもしれません。
いくらパンを聖書的に純粋に整えたところで、それを祝う人間に「不品行」「思い上がり」があるならば、すでにそこには古いパン種が潜んでいると言わざるをえません。
罪を犯さない人は一人もいないのです。しかしその罪に開き直ってしまうことが問題です。思いあがっているのです。十字架の主によって罪赦された喜びが色あせないために、自らの罪を悲しむこと、自らの罪と闘うことがどうしても必要でしょう。