静まりの時 エゼキエル34・11~16
日付:2024年04月19日(金)
11 まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。
12 牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す。
13 わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し、国々から彼らを集め、彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその地のすべての居住地で彼らを養う。
14 わたしは良い牧草地で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らの牧場となる。彼らはその良い牧場に伏し、イスラエルの山々の肥えた牧草地で養われる。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる──神である主のことば──。
16 わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
(11-16)
この言葉は、牧者たちに向かって語られた言葉です(7節~)。その牧者たちは、牧者としての役割が果たせずにいます。そのような牧者に向かって、神さま自らが民を牧す、と語っておられます。
神さま自らが牧者となって、民を牧してくださる。なんと幸いなことかと思います。
しかし幸いであると思えるのは、私が「肥えたものと強いもの」ではなく「失われたもの」「追いやられたもの」「傷ついたもの」であるときです。自分が「肥えたもの」「強いもの」であるならば、神さまの「正しいさばき」によって「根絶やし」にされます。幸いではなく、恐ろしいことです。
主の正しいさばきを幸いと喜ぶことができるであろうか。それとも、恐ろしいこととなってしまうのだろうか。
新約聖書は、義人はいないと語ります。すなわち人間はみな自分が「肥えたもの」「強いもの」である、神さまの正しいさばきの前に立ちおおせるものは一人もいない、と語ります。ですから神さま自らが牧者として来られるならば、誰一人生きることができない。
にもかかわらずこうして生きているのは、まさに生かされているからです。主の憐れみによって私たちは生かされているのです。
主は十字架と復活によって私たちをあがなってくださいました。さばかれて当然の者をゆるし、これに新しいいのちを与えて下さいました。私たちを「失われたもの」「追いやられたもの」「傷ついたもの」と見てくださり、自らがその御手をもって救ってくださいました。私たちはひたすら主によって、この「正しいさばき」を喜ぶ者とせられたのです。
主が、私の主となってくださること。主が私を導いてくださること。迷い出やすい私をつねに捜し求めてくださること。そのことを喜ぶ人生へと変えられました。
私たちは、主に捜し出され導かれて、はじめて自分らしく自由に生きる者となるのです。
少し前の新聞に「『めだかの学校』は民主的?」(朝日新聞、2024年4月10日朝刊)という新聞記事を読みました。めだかの群れの先頭を泳ぐ個体はどんどん入れ替わっているそうです。だれが生徒か、先生かわからないという童謡「めだかの学校」の歌詞そのままです。群れをつくる理由には諸説あるそうですが、それぞれの個体は群れのより内側に入り込もうとして群れが形成されているそうで、仲間思いによって群れが形成されているのではなく、むしろ自己中心的とのこと。
群れの形成過程には2段階あるそうです。1段階は視覚で相手を同じ仲間と認識して集まること。そうして他の個体についていくのが第2段階。実験として魚に目隠しをして(どのようにするのかこの記事からはわかりませんが)突拍子もない行動をする個体をつくると、それがリーダー役になって群れがついていくそうです。めだかの学校は、一見民主的に見えるのですが、かつてドイツ国民が集団でヒトラーに追従してしまった史実にもなぞらえて警鐘を鳴らす議論にもなるとのこと。民主的というよりも大衆的というべきでしょうか。一見個人の自由が優先されているようですが、結果的に集団を破壊に追い込むとすれば、それは隠れた全体主義かもしれません。
個人の意思が大切にされるのか。それとも集団や共同体の意思が優先されるのか。難しい問題です。しかし主にある者は、このいずれでもなく、あるいはこのいずれをも超えたところに生かされているのではないか。それは、主ご自身が私のまことの牧者である、というところです。自律的でも、他律的でもなく、神律的なのです。
自分が自分を大切にするとは限らない。本当に自分を大切にするためには、だれよりも私のことを知っていてくださるお方にゆだねることです。主は私のことも、そして私がともに生きる仲間のこともよく知っていてくださる。そのお方にゆだねていく。そこでこそ、まことに民主的でありながらも、大衆的にはならない世界が生まれるのではないか。個人も集団も大切にされるために、私たちは主が主となってくださる。すなわち主を大切にすることが何よりも重要なことなのです。