静まりの時 詩篇100
日付:2024年04月16日(火)
感謝の賛歌。
1 全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。
2 喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。
3 知れ。主こそ神。
主が 私たちを造られた。
私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。
4 感謝しつつ 主の門に
賛美しつつ その大庭に入れ。
主に感謝し 御名をほめたたえよ。
5 主はいつくしみ深く
その恵みはとこしえまで
その真実は代々に至る。
(1-5)
「知れ。主こそ神。主が 私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊」(3)。
「知れ」は命令形なのですが、誰が誰に向かって命じているのか。神さまが人間に向かって命じているのか。それとも人間が、他の人間に向かって命じているのか。
私が私に向かって命じているのではないかと思います。私の魂に向かって、私が命じている。私という主体が、私に命じることによって、私は限りなく客体化されていく。客観化されていく。
幼いころは、自分を保護してくれる存在、例えば親の語る言葉によって生きていればよかったのですが、やがてその保護してくれる存在から自立して、自分自身が自分の保護者のように私たちはなっていくのだと思います。よりよく生きるためには、自分が自分にとっての良い親になる。
主こそ神であることを知らない、知ろうとしない私に向かって、主こそ神なのだ、と私が語る。さらに、主が私を造られた。私たちは主のもので、主の民、その牧場の羊である、と語っていく。
私たち人間は、主こそ神であることを知り、私はこの主によって造られた存在であることを知り、さらには、私は、そして私たちは主のものであること、主の民であること、その主はまことの羊飼い、良い羊飼いであり、私はその主に養われている羊のようなものである。
自分に自信があり、強く生きていくことができると勘違いしていた時には、あまりわからなかったのですが、年を重ねるごとに自分の弱さを知るようになると、自分の存在を支えてくれる強く優しい存在がなくてはならない人生の土台であることをひしひしと感じるようになります。今日も、主こそ私の神である、私はその神に造られたものである、その神さまが、私をその御手の中に握りしめていてくださり、ご自身もものとして養ってくださることを感謝したいと思います。