静まりの時 第一コリント15・20~28
日付:2024年04月13日(土)
26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
27 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
28 そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
(26-28)
イエスさまの復活は、初穂、すなわち最初に結んだ実であって、それに続く実がある、と語ります。それに続く実とは、私たちの復活、です。主にある者は、この復活にあずかる者です。最後の敵であった「死」は滅ぼされました。死がもはや私たちを支配することはありません。それがキリストを信じる者の新しいいのちです。
この復活に与った者、新しいいのちに生きる者は、その生き方が180度変わります。「神がすべてにおいてすべてとなられる」。それが変えられた人の生き方です。この生き方にこそ、まことの幸いがあります。神がすべてにおいてすべてとなられる、という人生。それは、愛を持ってキリストに従う、ということによって実現します。イエスさまを愛すること。それが永遠のいのちに生きることなのです。
27,28節には、「従う」という単語が6回出てきます。
・神が万物をキリストに従わせた。
・そのキリストは万物には含まれていない。
・万物に含まれていないキリストが、しかし神に従われる。
・そうして神がすべてにおいてすべてとなられる。
復活の恵みに生きる者は、神がすべてにおいてすべてとなられた、ということを信じています。神がすべてにおいてすべてである、という新しい人生に生きる者こそ、復活のいのちに生きる者です。この新しい生き方に生きることなくして、復活の恵みに生きることができません。あるいはせっかく復活のいのちに預かっているにも関わらず、その恵みを味わうことにならないのです。
復活の恵みにあずかるために、私たちは、神によって、キリストに「従わせていただく」こと。では「従う」とはどういうことであるのか。万物に含まれていないキリストが、それでも神に従われる姿に、この「従う」ということがいったいどういうことであるのかが明らかにされています。キリストが神に従われるのは、いやいやながら、奴隷のように従われるのではありません。
ゲツセマネの祈りにおいて主は祈られました。
「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ27・39)
この「従う」姿には、父なる神様へのこよなき愛が現れています。キリストが神に従う、というとき、神と等しいお方が、それでもあえて父なる神さまに従うという道に歩まれる、服従される、へりくだられる、ということなのです。
このキリストが父なる神に従われた、という「従う」が、万物がキリストに従わせられたというその「従う」ということにおいて実践されること。それこそ、復活の恵みに生きることなのです。私たちが、イエスさまを愛するがゆえにイエスさまに従う、愛する心をもってイエスさまに従う、その信仰生活こそ、復活の恵みに生きることなのです。