静まりの時 ヨハネ20・19~23
日付:2024年04月12日(金)
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
(ヨハネ20・19~23)
週の初めの日、安息日の翌日、日曜日。主は、この日曜日の早朝に復活されました。その知らせは数人の女性たちによって弟子たちに伝えられました。その日の夕刻にはすでに弟子たちには主の復活が知らされています。その弟子たちが、しかしユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていたのです。恐れは依然彼らを支配していました。
そこにイエスさまは来てくださいました。隅っこのほうに立たれたというのではありません。彼らの真ん中に立たれたのです。恐れの中にあった弟子たちは、誰一人漏れることなく、主を目の当たりにしました。
その主は語られます。「平安があなたがたにあるように」。
「平安があなたがたにあるように」。彼らにとって最も必要な言葉だったのだと思います。そして私たちにとっても最も必要な言葉なのだと思います。
主は、恐怖に戸を閉じる弟子たちのところにも来てくださり、真ん中に立ってくださり、そして平安があるようにと語ってくださいます。復活の主が、行くことのできないところはどこにもありません。復活の主に出会うことのできない弟子はひとりもいません。皆が等しく主との深い関係の中に立たせていただけます。そして主のみ声を聴かせていただけます。
平安があるように、と語られた主は、ご自身の手と脇腹を示されます。そこには十字架の傷跡が残っています。「傷」を見た弟子たちの中に喜びが生まれました。
主が復活されたことを喜びました。しかしそれはまた「傷」を見て生まれた喜びでもありました。
傷。傷は隠したくなるものです。しかし主の傷、「御傷(みきず)」は、平安を見失った者の中に喜びを生み出します。私たちが人生の中で受けた傷、苦しみ、痛み、それらは、すべて主がご経験くださったことである。そのうえで主は復活された。私たちも、どのような傷があったとしても、そこには復活の希望があります。
主は再び弟子たちに言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
主からの平安をいただいた弟子たちは、その主に遣わされていきます。
「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた」(22)。
「息」は、旧約聖書ヘブル語では、「霊」と同じ言葉です。聖霊に満たされて弟子たちが遣われていきます。「聖霊を受けなさい」。
弟子たちが遣わされる目的、あるいは使命は、
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」(23)。
罪の赦し、あるいは、和解。それが弟子たちが遣わされる使命です。
和解の使者として、その使命を全うする弟子たち。彼らは、戸を閉じて恐れているような者でした。しかしその彼らを主は遣わされます。
主が彼らに備えてくださったもの。それは、主が真ん中に立っていてくださる信仰、主が御声をかけてくださった平安、また主の傷を見て喜ぶこと。そして主の息吹、聖霊に満たされること。そうして、私たちは和解を宣べ伝える者とされるのです。
和解の使者。それはいたずらに「許し」を語ることではありません。主が語られたことは、弟子たちがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦される。しかし赦さずに残すなら、そのまま残る、でした。それはまるで弟子たちが、罪を赦すか赦さないかの権威をいただいたかのようです。
本来罪を赦すことのできる存在とは、罪を裁くことのできる存在です。罪を裁くこともできなのに、罪を赦すなどという言葉には意味はありません。罪を裁く権威があるからこそ、そこから語られる赦しに意味があり力があるのです。また真実があるのです。それは神さま以外にはなすことのできないことです。その神さま以外になすことのできなこと、罪の赦しを、この弟子たちに、そして教会に主はゆだねてくださいました。
この罪の赦しの権威は、地上にあって唯一教会が持っているものです。まちがっても個人が持っているのではありません。私はあなたを赦します、など言う言葉は、感情的に、あるいは人間関係的には成り立つと思います。しかしいくら赦しても、あるいはいくら赦されても、主によって赦したのか、赦されたのか。そこが一番大事です。主の前にある赦しがない中のゆるしには意味がないのです。その権威を教会は主からいただきました。
それは教会が赦すか赦さないかの権力をいただいたのではありません。権力ではなく権威をいただいたのです。権力は自己主張です。しかし権威は他者から与えられるものです。けんいは判断をしなさいということとは少し違うと思います。主が十字架上でなされたことは、ひたすら赦しでした。その権威を教会がいただいた、ということは、教会はひたすら赦しを語るのだと思います。
教会が赦しを語るとき、そこには、真実の悔い改めと罪の認識が必要です。悔い改めがない、あるいは罪の自覚がない中で語られる、ゆるし、は赦しではありません。せいぜい許し、許可ということであり、再発防止が一切ない中でのゆるしになってしまいます。
人間は、人間である限り罪を犯さないということはあり得ません。一生涯私たちは、主の前に悔い改めに生きていきます。そうして主の御傷を仰ぎ見て、罪の赦しをいただきます。私たちの真ん中に立ってくださる主が、私たちにこの世では得ることのできない平安を与えてくださいます。