静まりの時 ヨハネ15・12~17
日付:2024年03月23日(土)
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。
(16,17)
私が主を選んだ、のではない。主が私を選んでくださった。そうして任命してくださった。選びの確かさ。任命の確かさは、私の側にあるのではなく、神さまの側にある。主との関係が確かなのは、私の確かさにあるのではなく、神さまの確かさによっている。イエスさまはそう語ってくださいました。
そもそも私たちには選ばれる理由や資質はないのです。賜物も能力もないのです。にもかかわらず主が選んでくださった。この選びの中に神さまの絶対的な愛が示されています。人間的に考えれば、選ぶはずのない者を選ばれた。それが神さまの御業です。神さまは人間の常識を超えておられる。非常識というのではない。超常識なのです。人間が考えるようにはお考えにならない。
ですから私たちは今日も生かされています。罪びとを断罪するのが人間の常識とすれば、神の超常識においては、罪びとを赦すのです。そのために、こともあろうに自らの命を差し出される。おおよそ人間には考えられないことです。
そのような愛の神さまだからこそ、私も選んでいただいた、任命していただいた。ただただもったいないことです。驚きとともに、感謝するのみです。
この不思議な神さまの選びの目的は、「あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため」「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるため」「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます」。
実を結ぶこと。その実自体も父が与えて下さるものであること。そして具体的には、私たちが互いに愛し合うこと。それが、選びと任命の目的です。
しかし、果して互いに愛し合うという「目的」のために、ただ選ばれ任命されたということなのだろうか。選びと任命にはもう少し深い意味があるのではないか。
例えば、仕事に就く目的は、その職務を全うすることにあります。その時、自分の意思(意志)で選んだ、というだけであるならば、ちょっと不安です。しかし企業が私をみて、有能な人材であると判断し選んでくれた、というのであれば、自信がわいてきます。入社試験や面接において、ふるいにかけられたすえに、その職務に耐えられるであろうと承認された。そこに、自分は選ばれたという自負が生まれ、その自負は自信につながっている。選んでいただいた、という喜びが力となって、職務に前進できる。そういう意味で、神さまは、あなたがたを選んだので、その選びの目的である、愛に生きる、ということを全うしなさいと言われているのだろうか。私たちも、選んでいただいたのだ。だから一所懸命に、その目的である、互いに愛することを全うしよう、となるのか。選んでいただいたのだから、神さまの御期待に応えよう、ということになるのか。
繰り返すようですが、主が私を選んでくださったのは、私の側に何か選ばれる理由があったのではありません。ですから、そのような者が、実を結んでいく、互いに愛し合う者となる、といっても、それらは、すべて神さまのお力によるものです。
ですから、神さまに選ばれた、ということ自体が、神さまのお力によって互いに愛し合う、ということが実現する根拠なのだと思います。
つまり、神さまに選んでいただいたのだから、これからはそのご期待に答えて、自力で頑張るぞ~、というところでなされる愛の行為は、やっている本人は愛のつもりかもしれないけれども、それは愛にはならない、なり得ないのです。
人間の行為が、愛となるためには、その行為者が、自分は選ばれるはずのないものであったということが厳しく了解されていること。そしてなされた数々の愛の業が、一方的な神さまの御業であるということが了解されていること。その了解がないならば、どんなに良い業に見えても、それは愛の業にはならない。かえって他者を、そして自分自身を殺してしまうことになる。
選びと任命の目的が、良い実を結ぶこと、互いに愛し合うこと、というのではなく、結ばれる実が、良い実であるためには、本来ならば選ばれるはずのないものを選んでくださった神さまの愛が前提とされていなければならない。なされた業が、すべて「父が与えてくださる」ものであるためには、その行為者が、神の選びの中にあることが前提とされていなければならない。そうでなければ、人間的な業に終始してしまう。互いに愛し合うその愛が、本当の愛になるためには、その行為者が、自分の中には愛がないということをわきまえ知っていなければならない。そうでなかければ、愛には到底なり得ない。
主による選びと任命は、私たちが本当に良い実を結ぶための、理由であり根拠なのです。