静まりの時 エペソ3・14~21
日付:2024年03月22日(金)
こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
(14-21)
14節と15節は、協会訳系では一つの節として訳されています。手紙のなかでパウロは祈ります。この手紙はエペソの町に生まれた教会の信徒に向かって書き送られています。その手紙の中で、主に祈ります。
パウロがエペソの信徒に手紙を通して語る。その語りは、神さまに向かっての語りと一つとなる。私が語る言葉の一つ一つが、神さまに向かって語る言葉と重なっていく。
おおよそ私が語るその言葉は、神さまもお聞きになっておられるはずです。もし、ちょっとこの言葉は神さまには聞かれたくないな、ということを語っているとすれば、とんだ間違いを犯していることになります。
講壇で語られる説教も、会衆に向かって語っているのです。しかしそれは同時に主への祈りとなっている。主に向かって語っている。
このパウロの祈りには3つの「よって(より)」があります。
1,御霊により(16)。2,信仰によって(17)。3,御力によって(20)。
1,御霊によって、強められるように。
御霊によって強められる。ほかの何ものでもない。権勢でも能力でもない。ひたすら御霊。すなわち神さまご自身によって強められる。
2,信仰によって、心のうちにキリストが住むように。愛に根ざし、キリストの愛を知ることが出来るように。
キリストの愛。神さまの愛は、信仰によらなければ知ることが出来ません。それは私の心にキリストが住んでくださること。心にキリストが住んでくださる、ということは、自分のすべてがキリストに支配されること。そしてそれは愛に生きることであり、同時に神さまの愛を知ることです。
3,御力によって、神さまの栄光がたたえられるように。
「教会において、またキリスト・イエスにあって」。ただイエスにあってというのではなく、教会において、とパウロは祈ります。教会は、便宜上存在しているただの組織ではなく、キリストの身体であり、それ自体「信じるもの」です。私たちは使徒信条でそう告白しています。その教会において、神の栄光がたたえらえれる。教会において、神さまが神さまらしく振舞ってくださるように、と祈ります。教会が人間の業に終始するのではなく、神さまが自由に振る舞われる場所となるように。
さて今一度、一つの言葉に心を止めたいと思います。
「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」
神の満ちあふれる豊かさに満たされるために、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることが出来るように、とパウロは祈っています。
キリストの愛は、人知を超えているのです。はるかに超えているのです。はるかに超えているということは、人間には知り得ないものである、ということです。しかしそれを「知ることが出来るように」と祈っています。これは理屈としては矛盾です。しかしここにこそ、キリスト教信仰とは何であるのか、が豊かに語られていると思います。またここにこそ神さまの満ちあふれる豊かさにまで満たされる道があります。
私には完全に知り得ることが出来ないものである、ということが了解されている中において、知ろうとしていく。それは別の言葉で言うならば、愛する、ということでしょう。
完全に知り得るものであるならば、それを知ろうとするとき、それを支配しようとすることと同じとなります。しかし自分には知り得ることが出来ない。はるかに大きなものである。はるかに尊いものである、ということが了解されている時、それを知ろうとすることは、愛するということにおいて実現するのです。愛は、支配しようとしません。対象に対する健やかな畏れを持っています。そして自分には限界がある、自分は完全ではないということをわきまえています。
私たちは、礼拝において、人知を超えた神さまの愛を知ろうとします。それは、神さまの愛を自分の手の中に取り込むことではなく、神さまの愛の中に、自分自身をそっくり委ねることです。そうして神さまの愛を知る時、私たちは神さまの豊かさに満たされるのです。
渇きを覚えるとき、コップに汲まれた水を飲もうとするのではなく、豊かに水を湛える池に全身をしずめることです。
最近二つほどの記事が心に留まりました。