もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです

静まりの時 ガラテヤ2・19~21
日付:2024年03月21日(木)

19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
(19-21)

 パウロは、「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」と語りました。
 神に生きる。神さまにあって生きる。神さまを信じて生きる。神さまを御頼りして生きる。そうして自分を生きる。自分の人生を生きる。そのために、律法によって律法に死んだ、と語りました。律法とは、ここでは律法主義のことです。自分の行いによって救いを得る、神さまとの歩みが実現する、という律法主義の生き方を、かつては熱心に追究していたが、今はそのような生き方は止めた。律法そのものによってやめた。律法に対して死んでしまった。律法主義が私に対して力を持つことがなくなってしまった。自分の行いによって救いをもたらす、などということが、私にとっては死の生き方となってしまった、とパウロはいうのです。
 それを、私はキリストとともに十字架につけられた、とパウロは語りました。自分の死に場所は、あのキリストの十字架であった、と語るのです。キリストが十字架によって死なれたこと。そこで私も死んだ。律法主義に生きるということによって自らを救おうとすることに死んでしまった。

 キリスト教信仰とは、イエスさまを信じることです。
 イエスさまを信じるということは、そのような存在がかつて地上に生きておられたということを信じることにとどまることではありません。崇高な教えを語られたその内容を信じることだけでもありません。イエスさまが、今も生きて力強く働いておられる神であることを信じることです。
 しかしそれだけでもありません。
 私たちが神さまを信じるということは、イエスさまの十字架を信じることです。イエスさまは信じたけれども、イエスさまの十字架は信じていない、というのは、キリスト教信者ではありません。どんなに、神秘的な体験をし、霊的な能力を保持し、沢山の奉仕をなし、有能な聖書理解をしたとしても、イエスさまの十字架を信じていないならば、それはキリスト教信仰者ではない。すなわち救いにあずかるための決定打が打てていないのです。
 ではイエスさまの十字架を信じるということは、どういうことなのか。
 それは、イエスさまが十字架で死なれたのは、私のためであった、ということを信じることです。全人類のために死なれたのではありますが、その全人類に自分が確かに含まれている。あるいは、私のためということが、誰彼のことはともかく、とにかく、私のためにイエスさまは十字架で死んでくださった。神さまはそうまでして私を愛してくださった。私が律法を守ることの見返りとして、いのちを捨ててくださったのではなく、ただ一方的な恵みによってそのいのちを献げてくださった。私がまだ罪びとであった時に、そのようにしてくださった。そのことを信じることです。神さまと私との、一対一の関係の中でのことなのです。

 ではイエスさまが、私のために十字架上でそのいのちを献げて下さった、と信じることは、どういうことなのか。
 それは、私もイエスさまとともに十字架につけらる、ということを信じることです。イエスさまを信じている、イエスさまの十字架を信じている。けれども、自分はイエスさまとともに十字架についていない、というのは、実はイエスさまを信じたことにはなっていないのです。

 では、イエスさまとともに十字架につけられたということは、いったいどういうことなのか。
 それは、もはや私が生きているのではない、ということです。今こうして生きている、生かされているのは、私のうちにキリストが生きておられることなのです。
 キリストと共に生きる喜び。そうしてこそ私たちは本当の自分自身に生きる者となります。本当の自分自身に生きる喜びは、自分がキリスト共に十字架につけられて死ぬこと、そうして、内に生きておられるイエスさまによって生きていることを喜ぶこと。それはただ神秘的なことを語っているのではなく、信仰によることである。御子イエスさまへの信仰によって、内なるキリストが生きておられることに、すべてをお委ねすること。自分の力で自分を救おうとすることから、自由にされること。その喜びに生きることです。

 イエスさまを信じたと言いつつも、イエスさまの十字架を信じているであろうか。イエスさまの十字架を信じるということが、この私も十字架の上で死んだ、ということを信じるととなっているであろうか。そうしてただ一方的な神さまの愛の御業、恵みの御業による救いに生きているであろうか。逆に、いまだ律法主義に生きていてしまってはいないだろうか。そうして自分で自分を救おうとしてはいないだろうか。

 罪びとは、自分で自分を救いたくって仕方がないのです。自分の行ないによって自分は救われるのだ、と信じることを止めないのです。
 私たちは、あの洗礼式において、自分に死にました。にも関わらず、まるで自己実現を果たすための手段として、信仰を利用しようとしてはいないだろうか。あの洗礼式、水の洗いによって、死んだはずなのです。へたに泳ぎがうまくて、生き残ってしまっているのではないか。身体の節々に至るまで、しっかりと死んでいるだろうか。そうでなければ、イエスさまが内に生きておられるのに、イエスさまが生きにくくて仕方がない。そうではなかろうか。
 イエスさまにしっかりと生きていただくために、もはや死んだものであることを大切にしなければなりません。

 蒸気機関車やディーゼル機関車が走るためには、自己車両に掲載している燃料をボイラーに補給し続けなればなりません。それに対して、電気機関車は、パンタグラフから電気の供給を受けているので、機関車両が軽量で、パンタグラフさえあれば、どこまででも走れます。私たちはイエスさまにお出会いし、イエスさまの十字架によって明らかにされた神さまの愛と恵みに生かされていることを知りました。そのイエスさまの十字架を信じ、新しく生きる決意と覚悟をしました。そうしてもはや自力燃料で生きることを止めたのです。自分で愛の補給をしなければならない、愛を探さなければならない、という生き方が終わったのです。いつもイエスさまにつながっていて(つなげられていて)、イエスさまから圧倒的な愛と恵みを頂いて生きるようになったのです。石炭や巨大なボイラー、複雑な機関はもはや必要ありません。車両は軽量です。イエスさまにつながってさえいれば、どこまでも走ります。疲れを知りません。鷲のように翼をかって上昇気流に泳ぎます。なんと幸いなことでしょう。そのようにされたにもかかわらず、ボイラー室に燃料の補給を続けているとすれば、巨大なボイラーや複雑な機関を抱え続けているとするならば、なんと滑稽なことでしょう。もほや自分に死んだのです。きょうもイエスさまに生きていただきましょう。それこそ、真実に自分自身に生きることなのです。


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