主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい

静まりの時 ヨハネ4・13~21
日付:2024年03月20日(水)

 イエスは答えられた。
「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
 彼女はイエスに言った。
「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
 イエスは彼女に言われた。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
(13-16)

 イエスさまが与えて下さる水。その水を飲む者は決して渇くことがない。なぜなら、イエスさまが与える水は、その人のうちで泉となる。そうして永遠のいのちへの水が湧き出る。
 肉体を潤す水分のことを話しながら、人間の本質的なものを癒す、潤す「水」についてイエスさまはお話されています。たましいを潤す水、いのちを潤す水。私たちにはこの「水」が必要です。
 この水は、いったん与えられると、そこで泉となる、といいます。汲み桶に組まれた水であれば、それが無くなれば再び汲みに行かなければなりません。しかしこの水をいただいたならば、もはや汲みに行かなくてもよいのです。
 汲み行かなくてもよい。それは、「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来る」ということでしょうか。イエスさまを信じるならば、どこであろうとも、そこが聖所となる。

 イエスさまが与えて下さる水を飲む。それは、イエスさまを信じること。イエスさまを信じる、イエスさまを信頼して生きる。それが、イエスさまが与えて下さる水を飲むこと。聖書を読んで潤される。祈りによって満たされる。賛美を歌って、ともに礼拝を献げて癒されていく。それも、イエスさまを信じる、ということが土台です。イエスさまへの信頼があって、はじめて、聖書、祈り、賛美、礼拝が、いのちの溢れる泉となる。
 イエスさまへの信仰がなければ、いずれの礼拝行為も虚しいもの、空っぽです。しかしイエスさまへの信仰があれば、どのような貧しい聖書朗読でも祈りでも、賛美でも、いのちに溢れたものとなる。
 しかし、同時に、信仰を見失いそうなときに、それでも聖書を読み、祈りをし、賛美を献げるとき、その失いかけた信仰が再び燃やされる。イエスさまからすでに与えられている水が、泉であることを呼び起こします。

 サマリアの女性は、イエスさまに向かって祈りました。

「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 その祈りへの、イエスさまの答えはこうでした。

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

 イエスさまは、いのちを水を与えて下さいます。無条件に与えて下さいます。しかしその水を真実に受け取り、真実に味わうためには、私の中にある「罪」の解決が必要です。
 イエスさまは、その解決への御手を伸ばそうとされます。あなたのこころを開いてごらん。あなたが隠しておきたいこと。そのような心の部屋もわたしの前に開いてごらん、と主は言われます。その部屋にも私は、あなたの主として臨在したい、と。
 果してこの女性は主の前に自らのすべてを明らかにしました。人目を避けて井戸にやってこなければならない人生が、主との出会いによって、180度変えられました。この女性は、人びとの中に入っていきます。

 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。
(28-30)

 神さまの前に自由を得たことによって、人びとの前にも自由をいただきました。その彼女のことばに、町中の人がイエスさまのところにやって来ました。彼女は、サマリアの町にイエスさまを宣べ伝えた最初の宣教師となりました。のちのピリポの宣教の下地を築いたのかもしれません(使徒8章)。

 私たちに必要なものであるいのちの泉をいただく。汲んでも尽きることのない泉をいただいて生きる。なんとすばらしい人生でしょう。そのために、私たちは、私の心のすべての部屋をイエスさまの前に開いていなければなりません。
 それは主の前に悔い改める、ということ、イエスさまの前に申し訳ありません、と祈ることだと思います。しかしこのサマリアの女の個所をよく読むと、この女性はイエスさまの前に一言も、ごめんなさい、と語っていません。ただ「私には夫がいない」と語っただけです。しかしその彼女の言葉にイエスさまは「あなたは本当のことをいいました」と答えてくださいました。不思議です。
 ごめんなさい、申し訳なかった、ということも、自分自身の一つの判断に基づくものです。そういう判断も横において、彼女は、ただありのままに自分をイエスさまのまえに、解き放ったのではないかと思います。イエスさまは、そんなこの女性の心を受け止めて下さいました。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
 悔い改めとは、何よりも、イエスさまの方向を向くことです。そうして私の心の部屋の扉を全開にして、隅々に至るまで、イエスさまの光に照らされていく。私の判断、私の評価、私の解釈をすべて脇において、ただイエスさまの光に照らされていく。
 人目を避けなければ井戸にやって来ることが出来なかった女性。今、彼女は神さまの光に照らされてありのままに人びとの中に入って行きました。彼女を縛っていた暗闇、罪、プライド、そんなこだわりも、もうどうでも良いこととなっていったのかもしれません。確かに彼女の中に、汲んでも尽きることのないいのちの泉が与えられたのです。


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