静まりの時 ヨハネ4・7~12
日付:2024年03月19日(火)
「一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、『わたしに水を飲ませてください』と言われた」(7)。
「一人のサマリアの女」の回心は、イエスさまの語りかけから始まりました。
主は渇いておられました。主はその渇きをいやすために、一人のサマリアの女に語りかけられました。そして水をお求めになりました。
この女性もまた、水を求めてやって来た一人でした。その彼女に主は水をお求めになりました。
渇いて水をお求めになる主。水を求めてやって来た一人の女性。水を求める者同士が、井戸端で出会うことになりました。この出会いが、彼女の回心の始まりでした。
水を求めてやって来たこの女性。その渇きは、水によっては癒されることのない深いものであることが後に明らかにされます。その渇きを自らがどれ程自覚していたのか。この日も、自分自身の内にある人生の本質的な渇き、その問題の根が解決されないままに一日が過ぎていこうとしていました。
しかしこの日は特別でした。人生の本質的なその渇きが癒される日となります。
その始まりが、渇きを覚えておられる主との出会いでした。
主が渇いておられる。水を求めて神が渇いておられる。その神との出会い。その出会いが、人間の渇きの癒しへの道の始まりとなる。
主は、その家庭の状態、彼女の心の状態、それらをすべてご存じの上で「わたしに水を飲ませてください」と語りかけられました。
「わたしに水を飲ませてください」
神の渇きを私たちは癒すことが出来るのだろうか。
もちろんこの女性を導くための、そのきっかけを得るための言葉だったのかもしれません。しかしイエスさまは、そのような見せかけの言葉を語られるのだろうか。
やはりイエスさまは心底渇いておられた。その渇きを豊かに水を所持している者にではなく、自分自身も水を求めてやって来た人、さらにはその家庭生活も渇きに渇いている人。そのような人にご自身の渇きの癒やしをお求めになられる。
人間には不思議なことです。
しかし神さまの渇きをいやすことが出来る人は、自らも渇いている人なのではないか。自覚しているかどうかはともかく、渇いている。何らかに渇いている。その渇きが癒されることをどこかで求めている。そういう不完全さを抱えて生きている。そういう人物に主は、ご自身の渇きのいやしをお求めになられる。豊かに水を湛えている人ではなく・・。
そもそもこの女性も、水を求めにやって来ることがなければ、主との出会いもなかったでしょう。彼女にとっては、いつもの作業の一つだったのかもしれない。しかしそこで主の出会いが起こった。水を求めてやって来たところで、本当の渇きが癒される「いのちの水」に出会うこととなった。
渇いていなければ起こり得なかった奇跡。一人のサマリアの女性の回心は、世界から見れば小さな小さな出来事かもしれません。しかし天の御国では大きな喜びが沸き起こっているのです(ルカ15・7)。
私のうちにある渇き。それを大切にしたいと思います。そしてそれを主の前に詳らかに、明らかにしつつお委ねしたいと思います。主が癒してくださる。満たしてくださることを待ち望みたいと思います。