静まりの時 ミカ7・18~20
日付:2024年03月15日(金)
18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。
あなたは咎を除き、
ご自分のゆずりである残りの者のために、
背きを見過ごしてくださる神。
いつまでも怒り続けることはありません。
神は、恵みを喜ばれるからです。
19 もう一度、私たちをあわれみ、
私たちの咎を踏みつけて、
すべての罪を海の深みに投げ込んでください。
20 昔、私たちの父祖たちに誓われたように、
ヤコブにまことを、
アブラハムに恵みをお与えください。
聖書の神さまは、他に類を見ない特別な神である。何が他の神と違うのか。何が聖書の神の特殊性なのか。
「咎を取り除く」、「背きを見過ごしにされる」「いつまでも怒り続けることはない」「恵みを喜ばれる」。これが私たちの神さまの特殊性であると聖書は語ります。
おおよそ「神」というと、人間を越えた力や知恵を持っている存在であり、この世に幸福や逆に禍をもたらす存在です。人間と超絶しているところがあり、仏ほっとけ、神かまうな、の言葉のように、人間は、その傍若無人ともいえる存在とじょうずに付き合っていかなければなりません。善悪や道徳心ともあまり関係がなく、その存在自体の嗜好に合わせて付き合っていくことで、私たちの人生の禍福が左右される。そんな感じでしょうか。おおよそ多神教の世界では、すべて相対的です。絶対的な基準がないので、倫理道徳も絶対的な基準を持ちません。
それに対して、聖書の神さまは、絶対的な存在であり、歴史をつかさどり、すべてをご自身の義をもって支配し導いておられるお方です。倫理道徳において絶対的な基準をお持ちの神であり、その神さまを信じる私たちには、私たちがそれにかなうかどうかはともかく、絶対的な基準を教えられています。
ただ絶対的な基準というと、単純にさばきの神を想像するのですが、聖書の神さまは、愛の神さまです。そもそも創造主である、ということに、神の愛が明らかにされています。自由意志を与えたことから人間は罪を犯すのですが、すべてをご存じの神であれば、そんなことは創造の前から想像できたことでしょう。にも関わらず創造されたのは、そこにご自身がその罪を担おうとの決意からでしょう。私たちは、この、私たちの罪を担おうと決意された創造主を信じているのです。
私たちの罪を担う決定的な時と場所。それが主イエスさまの十字架でした。
ですから私たちはいわゆる単純に一神教を信じているのではありません。三位一体においてご自身を現された神さまを信じているのです。
罪は裁かれなければなりません。しかし同時に神さまは赦しを実現しようとされました。それで、ご自身をお裁きになられたのです。
罪をうやむやにされたのであれば、わざわざ十字架にかかる必要はありません。神さまは罪をうやむやにされたのではなく、罪を赦されたのです。罪を赦すために、罪はさばかれたなければなりません。
そうして、私たちの咎を取り除いてくださいました。背きを見過ごしてくださいました。いつまでも怒り続けることがありません。恵みを喜ばれるお方なのです。
私たちは、この赦しの神、恵みの神を信じています。このお方にきょうも生かしていただきます。赦しの神、恵みの神を語りたいと思います。そのために、十字架と復活を語りたいと思います。