わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ

静まりの時 エレミヤ31・31~34
日付:2024年03月13日(水)

31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 神さまは「新しい契約」を結んでくださいます。
 この新しい契約の新しさとはなんであるのか。

・エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。
・わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す
・彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。

 エジプトの地から導き出した日に、神さまが結んでくださった契約とは、互いに教え合わなければならない契約であった。それに対して新しい契約は、神さまが、私たちのただ中に置いて下さり、神さまが私たちの心に書き記してくださる契約である。
 神さまと私との間において、何かを媒介するのではなく、神さまが直接に私に教えてくださる。それが新しい契約である。新しい契約に生かされる私たちは、直接的に神さまとの交わりの中に生かされるようになる。

「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 律法を守り、さまざまな宗教儀式を行うのは、私たちの罪が神さまに赦されるためであった。それはどこか私たちの行為の結果罪の赦しが与えらえるようなことになっていた。しかし神さまご自身が、赦す、と語っていてくださる。だから私たちは私たちの何ものにもよらず大胆に神さまに近づくことが出来る。

「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」(エペソ3・12)
「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4・16)

 ただこれは、教えるとか教えられることを否定しているのではありません。また制度としての教会を否定しているのでもありません。教会はキリストの体なのですから、大胆に礼拝の場所としての教会に近づくことが出来る、ことなのだと思います。大胆に学びの場に出ることが出来る、そこで互いに研鑽することが出来る、そうして共に神さまに近づく者としていただいたのです。
 神さまから赦しの言葉をいただいた私たちは、いつも新しく生きることが出来る。その恵みの道に生かされていることを感謝したいと思います。


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