静まりの時 詩篇37・1~9〔栄光の望み〕
日付:2024年06月24日(月)
「1 悪を行う者に腹を立てるな。
不正を行う者にねたみを起こすな。」
命令の言葉が続きます。「腹を立てるな」「ねたみを起こすな」「主に信頼し 善を行え」「地に住み 誠実を養え」「主を自らの喜びとせよ」「あなたの道を主にゆだねよ」「主に信頼せよ」「主の前に静まり 耐え忍んで主を待て」「腹を立てるな」「怒ることをやめ 憤りを捨てよ」「腹を立てるな」。
神さまの前に静まって、怒りを捨て、主に信頼し、主にすべてをゆだねよ、そうして今生かされているところで誠実に生きて行きなさい。
自分勝手で不正な怒りは捨てなければならないが、正しい怒り、いわゆる義憤であればむしろ持つべきであるかもしれません。しかしこの詩篇に歌われているのは、ひたすら怒りを捨てよ、ということです。
怒る、憤る、腹を立てる、というのは、それどのようなものであっても、自分のなかに「正しさ」をもっているものでしょう。客観的に見てそれがどんなに曲がっているかは別として、自分なりに義を持っている、それが怒りを生み出すのです。つまり、義憤でない怒りは存在しないのです。
ただ怒りというのは、理屈を超えています。どんなに冷静になろうとしても、ふつふつと湧き上がってくる温泉のようなもので、抑えようとすれば、余計に圧力が高まって、より大きな爆発を生み出すこともあります。その爆発は、他者だけでなく、自分自身をも破壊してしまいます。コントロールができないのです。危険な感情です。多くの事件の背景にはこのような感情が渦巻いているのではないでしょうか。
怒りを捨てる。腹を立てない。そのために詩篇は「主に信頼し 善を行え」「地に住み 誠実を養え」「主を自らの喜びとせよ」「あなたの道を主にゆだねよ」「主に信頼せよ」「主の前に静まり 耐え忍んで主を待て」と語ります。
怒りを捨てる。それは感情の問題ではなく、信仰の問題であると語るようです。
信仰によって怒りを抑える、というのとは少し違って、怒りをそのままに、それを人の前ではなく、主の前に持ち出そうとします。主の前に静まります。主の前にありのままの自分をゆだねます。主に信頼してゆだねるのです。
そうして、ひたすら「善を行う」「地に住む」「誠実を行う」「忍耐して主を待つ」「主を喜びとする」。
「3 主に信頼し 善を行え。
地に住み 誠実を養え。」
この「誠実を養え」は、新共同訳では「信仰を糧とせよ」、共同訳2018では「真実を育め」と訳されています。
「誠実」「真実」をお持ちのお方は神さまだけですから、神さまご自身を自らのうちに養い育む。神さまが自分のなかで、大きな存在となる、神さまの存在感、栄光が自分の中に充満する。内に住んでいてくださるお方が、その存在感を発揮してくださるようにと、私自身は小さくなっていく。そのように信仰に生きる、その信仰を生きていくための糧とする。そこにこそ平安やまことの自由があるのです。
今朝の詩篇37編は、協会訳系では、「アルファベットによる詩」と書かれていますが、いわゆる数え歌となっています。
ダビデによる。
1 悪を行う者に腹を立てるな。
不正を行う者にねたみを起こすな。
2 彼らは草のようにたちまちしおれ
青草のように枯れるのだから。
3 主に信頼し 善を行え。
地に住み 誠実を養え。
4 主を自らの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
5 あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
6 主はあなたの義を光のように
あなたの正しさを 真昼のように輝かされる。
7 主の前に静まり 耐え忍んで主を待て。
その道が栄えている者や
悪意を遂げようとする者に腹を立てるな。
8 怒ることをやめ 憤りを捨てよ。
腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
9 悪を行う者は断ち切られ
主を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。