わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする

静まりの時 黙示録3・11~13〔神の栄光の都〕
日付:2024年06月18日(火)

「わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。」(14)

 「わたしはすぐに来る」。主はすぐに再臨するといわれます。「すぐ」というのですから、短時間のうちにと想像しますが、実際には初代教会から数えて二千年間、主の再臨はありません。では主はいつ来られるのか。それはだれにも知らされていない、と聖書は語ります(マタイ24・36)。
 いつ来られるのかわからない。しかしすぐに来るといわれる。その緊張感の中に私たちキリスト者は置かれています。その緊張感の中に生きるようにと招かれているのです。
 いつであるのかが分かったならば、怠惰な私たちはその時まで備えを怠るでしょう。試験に一夜漬けで臨むようなことになるでしょう。確かに来られるけれどもすぐには来られない、とするならば、自分勝手に時を数えて、しばらくは来られないかのような歩みをしてしまうでしょう。
 すぐに来られる、しかしそれがいつであるのかわからない。その緊張感が、私たちの生活を「聖いもの」とするのです。
 この緊張感によって私たちは「自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい」との主の招きの言葉に生きる者としていただけます。
 主を信じる者はすべて「冠」をいただいています。信仰生活はこの「冠」をしっかり保つことです。新しく何かを生み出したり獲得したりする必要はありません。すでに与えられている者をしっかり保つ。それが信仰生活です。それが勝利を得る者です。

「わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。」(12)

 「新しいエルサレム」は、神さまの御許からやってきます。天から下ってくるのです。地上に人間の手で樹立されるものではありません。その下ってきたエルサレムには神殿があり、勝利を得る者、すなわち、冠を与えられている者が柱となっています。
 天から下ってくる新しいエルサレムには、イエスさまを名を信じ、それを守った者たちが柱となっている神殿がその真ん中にあるのです。

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」(13)

 迫害の中にあった初代教会。今朝の個所は、フィラデルフィア教会に向けて語られた言葉でした。フィラデルフィアとは、フィレオー(愛する)とアデルフォス(兄弟)という言葉がくっついでできた言葉で、兄弟愛という意味です。この町の名前は、もともとは兄弟思いの王が治めた土地であった、ということからそう名付けられたそうです。そこに教会が生まれた。自然とフィラデルフィア教会と呼ばれることになったのだと思いますが、まことに教会らしい名称であったように思います。現在、世界各地にこの名前の町がありますが、人はこの名前を愛したのだと思います。また願いを込めたのだと思います。
 兄弟姉妹が愛し合っている、そんな町であってほしい、そんな教会であってほしい。
 兄弟姉妹の間に愛が麗しく生み出される、そのためには、そこに再臨を健やかに待ち望む信仰が必要なのだと思います。再臨信仰が希薄になる、見過ごされる、あるいは健康的でない再臨信仰となってしまう、ゆがんでしまう、そういうところには、健やかな兄弟姉妹の愛が生み出されにくいのだと思います。

 今朝の個所ではありませんが、この文脈のなかの8節には次のような言葉があります。

「わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」

 この「少しばかりの力があって」という文章は、口語訳では「あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず」、新共同訳では「あなたは力が弱かったが」、共同訳2018では「あなたは力の弱い者であるが」。いずれも、力がない、少ししかない、弱い。しかしそれにも関わらず、主の言葉を守った、主の名を否まなかった、拒まなかった、との意味となります。
 しかし原文では「にもかかわらず」という言葉はありません。加藤常昭先生は、その説教集の中で、弱いけれども、主の言葉を守った、というのではなく、弱いからこそ、主の言葉を守ったのだ、と読まれていました。
 弱いからこそ、主の言葉を守らざるを得なかった。弱さこそ、主の言葉を守り、主の言葉に生きる道を開く。なまじ自分の強さによって、御言葉を信じ、み言葉を守ろうとするところにキリスト信仰は生まれない。生まれたとしても、それこそ弱い信仰でしかない。しかし自分の弱さがわきまえられているところでは、主の強さに頼らざるを得ない。そうして主の言葉を守り、主の言葉に生きようとする。そこには主の強さだけが立ち現れて、私たちは大安心のなかに生きることができます。パウロのように弱さを誇りたいと思います(第2コリント11・30)。

11 わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。
12 わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。
13 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』


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