教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです

静まりの時 エペソ1・20~23〔キリストの体なる教会〕
日付:2024年06月08日(土)

「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」(20、21)

 「この大能の力」。能とは「あたう」という字で、できる、という意味ですが、神さまは、大きな可能の力、偉大なことができる圧倒的な力、をお持ちのお方です。
 神さまですから、圧倒的な力を持っておられることは、なんとなく想像できることですが、パウロはその大能の力を、キリストのうちに働かせられた、と語ります。
 イエスさまを見れば、そこに神さまの力が見える、神さまの力を知ることができる、というのです。
 ではキリストの何を見るのか。キリストはよい教えを語られ、奇跡をおこなわれました。そのような姿を見れば、そこに神の大能の力を知ることができるのか。もちろんそれもあると思いますが、パウロは「キリストを死者の中からよみがえらせ」られたことに、神さまの大能の力が明らかにされている、というのです。復活こそ、神さまが大能の力をお持ちであることがよくわかるのだ、というのです。
 この復活とは、ただ死んだ者が生き返った、というのではありません。
 復活というのは、死者の中からの甦ることです。死者以外のものから甦る、ということは、甦る、という言葉で表現することではありません。ここにわざわざ死者の中から甦る、と書くのは、この「死者」というのが、肉体の死だけを現しているのではなく、罪の中に死んでいる、ということをも現しています。キリストの復活は、死の解決とともに、なによりも罪の解決である、と語るのです。
 さらにキリストの復活は、「天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれ」たことである、と語ります。すなわちすべてにおいて、圧倒的な力の神であること、そしてすべてにおいて「主」であること、そのようなご存在になられた、ということを明らかにしたのが、キリストの復活である、というのです。
 私たちは、この復活の主を信じる、すなわちキリストを自分の主、主人とすることによって、まことの救いにあずかることができるのです。聖書の語る救いは、罪からの救いですが、罪をチャラにしていただいので、今後も安心して罪を犯すことができる、ということではありません。誤解を恐れずに極端な言い方をするならば、復活の主のご支配の中に新しく生きるということですから、罪を犯さなくなる、キリストのようになる、ということにおいて、救いが完成されるのです。
 自分が主人であるときは、すべての事態を自分で解決しなければならない、打開しなければならないことでした。しかしイエスさまを主とした時から、すべてのことについて、このお方が主人なのですから、このお方に何とかしていただく、すなわち祈っていく、願っていく人生に変えられたのです。それが聖書の語る救いです。

「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」(22)

 このような大能の力をお持ちの主が、私たちの主となってくださったのですが、それはさらに具体的にどこに現れるのか。神さまは、「キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられ」ました。
 イエスさまを知りたい、イエスさまにお出会いしたい、と願うならば、それは教会に行けば分かる、というのです。
 教会は単なる組織ではありません。目的を果たすための単なる手段でもありません。教会は、キリストのそのものなのです。

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(23)

 教会こそ、キリストのからだである。教会においてイエスさまに出会い、教会につながり教会に生きることで、イエスさまを生きる者としていただける。それは教会の頭であるキリスト(エペソ5・23)を、主として、ともにキリストの体の一部分として生きることです。そうして私たちがキリストの体である教会を構成し、私たちもキリストの体を満たしていく(別訳)。私たちが満たさなければならないということ、すなわちキリストに欠けがあるというのではありません。全能の神であるキリストが、十字架と復活の愛をもって満ちておられる教会。その教会に私もつながる者としていただいた。私もキリストを主を仰ぐ者としていただいた。キリストの満ちあふれた教会において、私もキリストを満たす者として招いていてくださる。なんと幸いなことなのでしょう。すべてに満ちておられるにもかかわらず、あなたが必要なのだ、と語ってくださる主がおられるところ。それが教会です。

 教会というのは「信じるもの」です。教会を満たすことのできるだけではなく、「すべてのものをすべてのもので」満たすお方、それがキリストです。教会内部のことだけではなく、全世界の必要を満たすことのできるまことの神さまが、教会、に満ちておられる。畏れ多いことです。教会を信じる。教会を信頼する。そうして私たちは健やかに信仰に生きる者としていただきます。

20 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。


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