静まりの時 エペソ4・10~16〔キリストの体なる教会〕
日付:2024年06月07日(金)
「この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。」(10)
イエスさまは天より下られたお方です。クリスマスにおいて語られるのは、この「降誕」のことです。しかしそれで終わりではありませんでした。イエスさまは十字架と復活ののち、昇天されました。天に昇られたのです。「もろもろの天よりも高くあげられた」といっても、いろいろな天があるわけではありません。神さまは天と地を造られたと創世記に記されていますので、天も神さまの創造物です。ここではその天に昇られたというのではなく、その天よりも高くあげられたというのですから、とにかくすべてに勝るお方になられた、ということです。別の言い方をするならば、もはやイエスさまのおられないところはどこにもない、イエスさまの力の及ばないところはどこにもない、どのようなところにも、どのような事態にも、イエスさまはともにいてくださる、私たちの神さまはともにいてくださるのです。「天にも地にも、わたしは満ちているではないか」(エレミヤ24・23)。
こうしてイエスさまはすべてのものを満たしておられます。きょう、私たちが生きる道にもイエスさまは圧倒的な創造の力と愛をもって満ちておられます。
「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました」(11)。
イエスさまがいたるところに満ち溢れていてくださる。その信仰的な事実のなかに、私たちは生かされているのですが、その信仰生活は、どのようにして実現するのでしょうか。イエスさまご自身が人間の常識を超えた不思議な体験を人間に与えることによって、その事実を明らかにされるのでしょうか。聖書は、ある人たちを使徒、預言者、伝道者としてお立てになった、またある人たちを牧師、教師としてお立てになった、と語ります。
神さまは、ご自身がともにいるとの恵みの真実を明らかにするために、教職をお立てになった、とパウロは語るのです。宗教改革者ルターの語った万人祭司とは、すべての人が祭司である、という意味ですが、正確には全信徒祭司と訳すべきだと思います。イエスさまを信じていない人が教会において教職となることはありません。イエスさまを信じているすべての人が教会で「教える」「指導する」ことができるとしたのだと思います。しかし果たしてそれは、聖書の語るところを具現化することなのか、というと、どうもそうではありません。実際宗教改革によって生まれたプロテスタント教会も、その多くは、そうはしませんでした。ここに書かれているように、教職を立てて、教える、指導する、ということをしたのです。つまり「秩序」を大切にしたのです。
私たちの信じる神さまは秩序の神さまでもあります。たとえば、神さまは全能なるお方ですが、頂点の四つある三角形をお描きになることはできません。なぜならそれ自体論理的な矛盾があり、秩序に反しているからです。全能であるにもかかわらず、ご自身がお立てになった秩序の中にその身を降しておられます。神さまであるお方がこのように秩序の中に身を降しておられるのにもかかわらず、霊的に生きることが秩序を超えることであるともいえるようなことになっているとすれば、おかしなことですね。本当に霊的な人は、秩序を守ることのできる人です。そのために謙遜になることのできる人こそ、まことに霊的な人なのです。
ご自分がすべてにおいて満ちているということを明らかにするために、神さまは教職をお立てになりました。使徒、預言者、伝道者、とは、いくつもの教会を監督したり指導したりする立場かもしれません。牧師や教師は、一地方教会を監督したり指導したりする立場かもしれません。いずれも御言葉の奉仕をする人のことです。ここには書かれていませんが、監督や長老、執事といった役割も他の書簡には登場していますが、それらは直接的に御言葉を語るというのではなく、上記の御言葉を語る人たちが、その奉仕に集中することができるために、他の奉仕をする人、ということでしょう(使徒6章)。
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです」(12)。
牧師が聖書の説き明かしに集中することができる。そのために「聖徒たち」、すなわちすべての信徒が整えられて奉仕の働きをする、神さまはそのようにして「キリストのからだを建て上げ」られる、すなわち教会をお建てになる。
目的は教会を建てることです。教会は、個人の信仰生活が守られるための道具ではなく、教会を建てることそのものが目的なのです。これは少し乱暴な言い方に聞こえるかもしれませんが、キリスト教信仰が、自己中心から解放され神さま中心に生きることとすれば、当然の帰結なのです。
個人の好みや主張を満足させるために、道具として教会があるとするならば、どこまで行っても自己中心から解放されることはありません。私たちはキリストに出会って救われたのです。これからはイエスさまを中心として生きるのです。そうであれば、イエスさまのおからだである教会を建てる、ということにおいてこそ、それは実現していくのです。教会の様々な奉仕も、自分の願望の実現や、自己満足のためにあるのではありません。教会を建てるためです。教会を建てるということは、そこでまっすぐに聖書の言葉が語られるところを建て上げていく、ということです。そのために、秩序をもって教会形成がされていく。教職が立てられ、信仰箇条が確認され、教会規則が作成されていく。それ自体が目的なのです。
では個人の信仰生活はあとまわしになるのか。そうではありません。イエスさまを信じたということが自己中心から解放された、ということは、この教会が建て上げられていく、そうして教会生活が建て上げられていく、ということと、個人の信仰生活がイコールになる、教会生活と個人の信仰生活が一つになっていくことです。それが健やかな信仰生活であり、そうして健やかな人生に生きるように、私たちは招かれるのです。
「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです」(13)。
教会生活が私の信仰生活となる、ということは、神の御子に対する信仰と知識において一つとなることです。教会を建て上げるということはこの、一つとなる、ということです。和気あいあいとした集団をつくるというのとは少し違います。それはそれで麗しいことだと思いますが、ここで一つになる、と言われているのは、イエスさまに対する信仰と知識において一つとなることです。
難しい神学的な勉強をしなければならないというのではありません。単純にイエスさまを信じる、信頼していればよいのです。幸いに神さまは教会に教職を立ててくださいました。その教職を通して、イエスさまに対する信仰が養われ、知識をいただくことができる。そこで一つになる道が形成されていく。そうして一つになっていくのです。
もちろん教職も間違ってしまうことがあるでしょう。だからこそ教職も、他の教職との交わりがどうしても必要です。群れの中に身を置いている教職であることがとても大切なのです。日々研鑽を怠らない、祈りを怠らない教職であることが必要なのです。
それはまた「一人の成熟した大人となる」ことでもあり、「キリストの満ち満ちた身丈に達する」ことでもあります。教会が一つになることと、一人のキリスト者がキリストのようになることとが一つになるのです。
「こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです」(14,15)。
教会ではさまざまに教えの風が吹き荒れることがあります。なぜなら人間は救われたといってもどこまでも罪びとだからです。教えの風が吹き荒れることによって、私たちは吹き回されたり、もてあぞばれたりしてしまいがちです。そのような教えの風は、「人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た」ものである、と断言します。実際には、善意をもって語られた言葉が、結果として違った教えの風になってしまっている、ということもあるでしょう。しかしそれが間違っている、少なくとも聖書的ではないよ、というアドバイスが(その多くは教職からされるのですが)あったときに、素直に、そして謙遜に、そうですね、と聞く耳を持っているかどうかが、悪巧み、人を欺く悪賢い策略であるかどうかが識別されるところだと思います。
一つになる、ということが、かしらであるキリストに向かって成長することなのです。どんなに立派なことをいっても、各自が自己満足のために自己主張することによって分裂を起こしている、遜らない、そうして一つとなろうとしない、というのであれば、それは成熟した信仰の大人になっていないのです。
イエスさまは、子どものようでなければならないといわれました。それは子どもっぽくわがまま放題に生きよ、と言われたのではありません。子どものように生きることは、信仰の大人になることなのです。まことに信仰の大人こそ、子どものようになること、なのです。
「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」(16)。
キリストの体である教会は、それぞれが、節々を支えとして組み合わされていきます。つなぎ合わされていきます。そうしてそれぞれの部分が、その分に応じて働くことによって成長していきます。教会の成長とは、このような成長のことをいいます。それぞれの部分がその分に応じて働くためには、それぞれがその分を「超えない」ことも大切でしょう。教会が成長する、というときに、個人の信仰生活が祝福のうちに成長していく、それぞれがその分に応じて、健やかに自分らしく生きていくことができる。教会が建て上げられるということは、まさに人間が人間として健やかに生きていくことができるようになることなのです。
それぞれをつなぐ節々は、神さまご自身が準備してくださいます。節々とは神さまご自身といってもよいかもしれません。それぞれが神さまとしっかりとつながることによって、お互いがつながる。健やかにつながるのです。骨と骨が直接つながっていてはその体は生きることができません。
愛のうちに建てられる。この愛とは、神さまから人間への愛、そして人間から神さまへの愛、さらに人間同士の愛、と言われます。この三つの愛が確認され、働くことによって、教会は建てられるのです。
10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。
11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。