二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです

静まりの時 マタイ18・15~20〔キリストの体なる教会〕
日付:2024年06月04日(火)

「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」。

 この前節に「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」(14)と書かれています。だれ一人滅んではならない、との父なる神さまのみこころが明らかにされている文脈に、この言葉があります。
 だれ一人滅んではならないが、滅んでしまいそうな事態を迎えた。それは、教会の仲間が、あなたに対して罪を犯した。どんな罪はか記されていません。しかしどんな罪であっても、あなたに犯したということは、その罪を犯した仲間が滅んでしまうことである。そうイエスさまは言われました。
 滅んでしまわないために何を為すべきか。「行って二人だけのところで指摘しなさい」。指摘しなさい。新共同訳では「忠告しなさい」、共同訳では「とがめなさい」。罪を犯されたことが我慢ならないから、復讐心に燃えて責めというのではないのです。放っておいてはならない、しっかりと注意しなさい、というのは、それはその仲間が滅んでしまいそうな事態だからです。
 ですから罪を犯した仲間に教会が忠告を与える目的はただ一つ、その仲間を取り戻すためです。「その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります」。

 しかしその忠告を受け入れるかどうかは、やはりその仲間の自由意志(意思)に任されています。忠告を受け入れないこともあることが想定されています。忠告を受け入れないというのは、実際にはどのような返答が返ってくるのでしょう。おそらく、まずは事実の否定、そんなことは事実無根である、ということでしょう。また、言い訳がなされるでしょう。そんなつもりではなかった。善なる心でしたことなのだ、語ったことなのだ、と。しかし言い訳というのは、結局、罪を犯された者の心の傷などは理解されていないわけですから、結局事実を否定していることとあまり変わらないことです。どんないきさつや背景があったとしても、そこで率直に謝罪か、悔い改めがなされることが必要です。「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい」。

 最初小さく始まったことが波紋が広がるように拡大していきます。最終的に教会全体の問題となります。単に大勢の人数の力によって一人の人の罪を指摘する、というのではありません。教会はキリストの体です。もちろん二人だけのところにもイエスさまはおられたのです。しかし最終的には、文字通りイエスさまのお身体である教会のまえで、その罪が指摘されることになる。しかし「教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」。

 異邦人か取税人のように、という言葉は、いろいろと想像が走りますが、ここでは単純に、教会の仲間ではないように、教会では扱わなければならない、とイエスさまは言われました。これを腐敗したミカンは取り除かなければ、その腐敗は他に広がっていく、と説明したくなるところですが、私はそうではないと思います。聖書が語る異邦人か取税人というのは、村八分という意味ではなく、旧約聖書に記されているツァラートに対する対応と似ているように思いました。旧約聖書においてツァラートは、それが発覚すると村から外に出なければなりません。しかしそれは永遠の断絶を現しているのではなく、定期的に確認がなされ、もしツァラートが消えたならば再び仲間のところに復帰することができる、という制度でした。日本がかつて行った政策と比較すると、驚くべき先進性です。
 すこしたとえは悪いかもしれませんが、異邦人や取税人のように扱う、というのは、やはりそこで悔い改めがなお期待されていることなのだと思います。

「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」。

 イエスさまは、これは驚くべき教会の権威を語られました。教会は単なる共同体、信仰のグループというのではないのです。天国のカギをお預かりしているところなのです。

 少し話はずれますが、カトリック教会では結婚式は、秘跡の一つですので、とても重要な式です。ですからもし離婚に至った場合、役所に離婚届を出すだけではなく、カトリック教会にも離婚届を出す必要があります。もし出さなければ、依然結婚したままの状態ですので、その状態で再婚すると、社会的には単純に再婚ですが、教会としては重婚となってしまうのです。
 ちろんプロテスタントでも結婚の重要性は変わりません。しかし離婚したときに、教会にも離婚届、あるいは離婚式を行うところはまれですね。実はないわけではありません。もちろん結婚式のように大々的に公にはしないと思いますが、はからずも離婚することになったときには、牧師の前で、できれば二人そろって、祈りの時が持たれることはよいことだと思います。
 言いたいことは、それだけ教会の権威を大切に考えようとしていることです。イエスさまは、教会の権威は大切なことですよ、と言われたのですから。

「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

 このように文脈をたどってくると、この19,20節の意味が何であるのかが明らかにされます。少人数でも神さまはそこにともにいてくださるので、そこで祈られる祈りはなんでも聞いてくださる、ということではありますが、その祈りは、何よりも、罪の赦しの祈りのことなのです。
 キリスト者となる、ということは、洗礼を受けるということですが、洗礼式は個人的な信仰の出来事にとどまるものではありません。教会という共同体に加えられる式です。共同体的な出来事なのです。ですからあえて洗礼式とは言わずに、洗礼入会式ということを、教会は大切にしてきました。洗礼を受ける、そうして教会の仲間になる、ということは、もしその仲間の誰かに罪を犯したとき(個人的な罪のことではありません。交わりを破壊しかねない罪のことです)は、ゆるがせにしない、ということを約束したということなのです。

15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」


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