静まりの時 ガラテヤ6・1~10
日付:2024年06月01日(土)
「だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。」(3)
何者でもないのに、自分を何者かであるかのように思う。何者かである、とは、口語訳では「何か偉い者であるように」、新共同訳では「ひとかどの者だと思う」。
どうして人間は、自分を何か偉い者であるかのようにふるまってしまうのでしょう。どうしてそのようにせずにはいられないのでしょう。それは自分自身を欺いているのだ、とパウロは語りました。自分を欺く人生に幸いはありません。本当は、自分がどんなものであるのかを薄々感じている、あるいは思い知らされてきた、だからこそそんな自分を見たくないとの思いから、ひとかどの者のように思おうとするのかもしれません。
ピリピ書には「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(2・3)とあります。決して自己卑下して生きよ、というのではないと思います。自分を正しく、まっすぐにとらえていく、欺くことなく自分自身に生きていく。それは、本当の幸いに生きる道だと思います。
この世には、自分を正しく見ることを阻もうとするものがたくさんあると思います。自動車の運転でハンドルをもつと全能感に満たされてしまって人が変わる、ということもあるでしょう。テレビドラマを見て、まるで主人公になったような気分になることもあるでしょう。経済力や社会的な地位が、自分の本当の姿を見えなくさせてしまうこともあるでしょう。
しかしイエスさまを信じることは、自分自身を等身大で、ありのままで見ることができるようにしていただいた、ということです。
1節に「御霊の人であるあなたがたは」と語りかけられていますが、霊の人とは、カリスマティックな人のことを言うのではなく、等身大の自分を生きる人のことなのです。
1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
3 だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。
4 それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。
5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。
6 みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
9 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
10 ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。