静まりの時 ローマ8・12~17
日付:2024年05月27日(月)
14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
神さまを「アバ、父」と呼ぶ。「アバ」とは、幼児語である、と説明されることが多いと思いますが、新キリスト教辞典(いのちのことば社)によると「乳幼児が父親への親しさと尊敬をもって呼びかける時に用いたことば」と説明されていました。幼児語との説明から多分に甘えを含んだ言葉と理解しがちですが、親しさを持った言葉ではありますが、尊敬をもってということでもありますので、単純に甘えというイメージはないようです。
観想的な生き方として「子どもっぽい生き方から、子どものような生き方へ」(中村佐知、「霊的変容の旅路への招き」、『船の右側』、2017年9月号、31頁)と書かれてありましたが、甘えに満ちた子どもっぽい生き方は、聖書の語る「子どものような」生き方とは異質な生き方のようです。
子どもっぽい生き方ではなく、子どものような生き方。親しさと尊敬をもって神さまとともに歩もうとする生き方。それは人間の力によって築き上げられるものではなく、神さまのお働き、聖霊の働きの中でこそ培われるものです。聖霊に導かれる人は、まさに子どものような生き方をする人なのです。
神さまを信じて生きる者は、恐怖に縛られるような奴隷の生き方ではなく、まことの自由と安らぎに満ちた生き方へと招かれています。
このキリストによる自由の思想は、その後パウロからアウグスチヌスを経てルターに引き継がれるが、しかし、このルターはそれを強調するとともに変貌したと見られる節がある。というのは、ルター自身の主観では、彼の書いた有名なパンフレット「基督者の自由」が示すように、全くキリストによる自由をのべたつもりであったが、中世を政治的に支配したローマ教会に反抗したという彼の行為自体によって、政治的圧制に対する個人の自由という意味のほうが時を経るにしたがって重きをなすに至ったからである。いいかえればルターにおいて、キリストによる自由の名の下に、ギリシャ以来の政治的な意味での自由人の意識が再現したということができる。もっともこれは客観的にそう解釈できるということであって、ルター自身にこの意識は存しなかった。奇妙なことだが、彼は人間の自由意思を否定さえしているのである。さらに彼は、自らは神の正義の故にローマ教会に反抗しながら、農民たちが彼に反抗すると暴力的にそれを弾圧するという矛盾に陥っている。このルターの矛盾は不幸にしてその後近代を通じ現代に至るまで受け継がれているといわねばならぬのである。
土居健郎、『「甘え」の構造』、弘文堂、昭和46年2月25日、平成3年11月10日、104頁f